2011年1月8日土曜日

石の話。あるいは、原始へのあこがれ。

 石は堅い。
 どれくらい堅いかというと、人の子どもの子どもの子ども…という繋がりが百代続いても変わらないくらい堅い。
 人の約束なんて話にならないくらい堅いのだ。

 だから、人は石に憧れる。
 憧れるどころか、昔の人は畏れもし敬いもした。自分らが知らないずっとずっと昔のことを石は知っているのだから。

 だから、いまのボクらも、石を見ていると、いまは知らない昔のことを思ったり、知らない原始への憧れで胸がいっぱいになったりして…

 キミはさいきん石を握ったか?

 握った石を、たとえば投げたか?

 なでなでしたか?



 そういうわけで、人類が文字を発明する以前の何千年も何万年も昔のことを知ろうとしたら、遺っているのは石しかなく(あるいは石化した有機物)、だからその時代を石器時代と呼ぶのだろう。
 石器というのはもちろん石で作られた道具のこと。石の斧とか石のナイフ。石の矢尻や器のことだ。

 このあいだ、アイヌの文化を守っているアイヌ資料館の館長さんが、スコットランドを旅するドキュメンタリーを見た。
 日本に編入されようというかつてのアイヌ民族に、少数民族の文化や言語の大切さを教えたスコッランド人がいた。その民族の恩人の魂を慰撫するため、館長さんはその故郷を訪ね、アイヌの儀式をかの地で行う。そのとき、伝統の石器でもって白木をサクサク削るのだが、その原始的な石器の切れ味の鋭いこと!
 市販の彫刻刀なんてメじゃないくらい、サクサクなのだ。ゆめゆめ石器を侮る勿れと思った。
 中学生のころ歴史の教科書とかで、なまったような無骨な石器の写真を見て、こんなんでなにが切れるものかと心のなかでその原始性をバカにしたものだが、改めねばならないと思った。
 磨きあげられた石の鋭さを、原始性の切れ味を、バカにしてはいけない。



 それから丸石のこと。道祖神のこと。
 長野でも全国でも道祖神さまといえば、男女一体の彫り物の石が有名だけど、ボクの故郷の山梨のたとえば甲州街道沿いでは、それはただの丸い石なのだ。

 ちょっと立派な石の台座のうえに、どこか河原から拾ってきたようなひと抱えの丸い石がちょこんと乗っかっていて、それが道祖神さまで、今でも道端にたくさん見ることができる(この丸石については、中沢新一氏のお父様で民俗学者の中沢厚氏が書かれた本がある。まだ読んでないけど読みたいな)

 それは、具体的な男女の姿や男根の形などよりずっと抽象的で宇宙的な感覚のオブジェであり、と同時により原始的な、人間の石というモノへの信仰を露骨に素朴に感じさせる道辺の神様なのだ。
 もちろんいま在る丸石は太古からのモノではないけれど、そこにはまだなにかしら原始の人間の信仰のカタチが留まっているように思える。
 丸石を見ていると、もしかして原始という時代は、ボクらの現代よりももっとずっと抽象的で、もっと宇宙的だったのかもしれないとさえ思えるのだ。
 しかも山梨の人は「うちらあ縄文から一気に維新になったからよー」といまも云う……。



 先日ひさしぶり帰省した折に丸石の写真を撮ってきた。
 そして戻ってきた東京の或る夜、夢を見た。

 昼間だというのにうす暗く、黒々と流れる川べりのような一本道に、見渡すと、ホタルのような青白い丸石が遠くまで点々と続いている。
 川の流れる水音だけが途切れなく響いていた。
 ボクはカメラを持って、その丸石のひとつひとつを挨拶するように写して歩くのだが、レンズを向けると、青白い光は弱まって、なぜか不思議に丸石に宿る精霊のこころがやんわり浮かび上がるふうなのだ。

 ある丸石は、いまも道辻で人々の崇敬を受けながら、交通の安全を祈り、行く先を示す、道しるべの仕事に勤しむことがほんとうに誇らしいという顔だ。

 別の丸石は、もとあった場所から移されたのか、道からやや奥まった場所の厳かな高台の上に載せられて、引退した老人のよう。気恥ずかしいような、萎縮しているような面持ちだ。

 またお正月の真新しい注連縄で飾られて、なんとも満足げな丸石や、歓声を挙げながら鬼ごっこをする近所の子どもたちにひっきりなしに台座に乗られ、それがなんだかこそばゆいような、嬉しいような丸石もある。

 どの丸石も、みなそろって気取りがなく親しげだ。
 裏も表もない。まん丸な形そのまま。全方位的、宇宙的にこころを開いている。
 すると、寡黙だった丸石たちがいっせいにささやき始めた。

——そうそう。ボクらは神社仏閣とは無縁のただの路傍の道祖神。高等でも上品でもない。けれど、貧富も身分もなかった縄文や石器時代の、太古のたましいをいまもこうして青白く点灯させているんだ。



 目を覚まして、ボクは思う。
 ここは山梨でない、東京なのだ。

 どんなに憧れても、ノンキな原始の時代へ戻ることはかなわない。幸福だった少年時代と同様にだ。
 けれども、太古から生き続けている精霊のような存在を感じることはできるかもしれない、丸石のように。「クリスマス・キャロル」のスクルージのように。

 いったいこれからボクらはどこへ行くのだろう?
 空に問いかけてみる。

 現代はあまりに過剰な変化の時代だ。
 しかも、その変化がなければ落ちつかず、それを欲してしまう、そういう心性にボクらはすっかり馴らされてしまった。
 つまりはただの情報なのだが……。
 もしも丸石のように、まる一日、ニュースでも株式市場でもインターネットでも、まったく変化がなかったら、何も情報が動かなかったら、みんなどうするだろう?
 それこそ丸石を砕いて、太古を計り、相場に乗せて変動を作り出そうとするのだろうか?

 時間が、過去から未来へ向かって一直線に伸びているという考えが一つの観念なのだ。あるいは幻想なのだ。

 もしも時間が一直線なら、縄文時代の人々が丸石を祀るようなことはなかったろう。丸石のなかでは時間は一直線には進まずに、循環しているのだから。
 実際いまだって、ボクらの心のうちではほんとうは毎日さまざまな思い出が蘇ったり、回帰したり、また忘れたり。時間は行ったり来たりをくり返しているではないか。
(もしも、ひとときでも、あなたが、時間の一直線幻想から逃れられたなら、これ以上、時代の変化や情報にさいなまれることはないのだ……)



 石と向かい合う

 それは自然ぜんたいと向かい合うこと

 自然のずっと変わらなかった部分
 何千年も何万年もあるいは何億年もずっとずっと変わらなかった部分つまり「自然の法則」そのものと向き合うこと

 宇宙と向き合うということ、だ

 その、いっしゅんだ——

 キミはさいきん石を握ったか?

 握った石を、たとえば投げたか?

 なでなでしたか?

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