2011年2月26日土曜日

迷宮へ

 はじめて行った外国の街は小雪降るワルシャワだった。一九九二年のことだ。ソ連が崩壊したばかりで、つい最近まで共産主義だった街並みには「商業広告」というものが一切なく、暗褐色の石造の建造物が海の底のように並んでいた。資本主義バリバリの国から来た自分に、それはなんだか心許ない風景だったが、すっきりと美しくもあった。
 はじめての海外で一人旅で日本人はまったく見かけない街で緊張していた。普段生きている場所とは文化も言葉も風景もまったくちがう世界にひとり放り出されたのだ。魂はゼリーのように震え、些細なできごとにも冷や水を浴びせられたように動揺したり、戸惑ったり、感激したりした。
 それでも、ただ観光するだけじゃつまらない、できるだけ劇場を見て回ろう、できればなにか公演を見てやろうという魂胆があった。ホテルのベッドに買ったばかりのワルシャワの街路図を広げると、劇場を示す仮面マークがざっと数えても二十から三十、かなりの数記されているではないか。まずは街の中心からひとつひとつ回ってみた。だがシーズンオフなのか、公演をやっているところがなかなかない。ふと見つけた街の塀のポスターの、ポーランド語の日付と時間は自分にもわかった。今夜公演があるらしい。だが場所は地図より外側の郊外のよう。通りすがりの優しそうなオバさんを思い切って呼び止め、書かれた住所が自分の持ってる街路図のどのあたりなのか尋ねてみたが、よくわからないという。途方に暮れた僕の表情がよほど切なかったのか、オバさん、塀の向こうの工事現場のオジさんたちに大声で尋ね出した。それでも拉致が明かないと見るや、今度は道行く人を次々と呼び止めた。ついには、足を止めた人びとみなで「この住所はここだ」「いやいやこっちだ」と議論を始めたのだ。なんて素朴な良い人たちだろう! 感動し、勇気をもらった勢いで郊外へ出ることになったのだった。
 よくわからない場所でタクシーを降ろされ、目の前は殺風景な住宅街の一直線の道だった。右側の高い塀の向こうは墓地で、左側に並ぶ無機質なコンクリートのアパート棟には人影がまったくない。上空からは灰色の風が吹きつけてくる。「本当にこの先に劇場なんかあるのだろうか?」絶望しそうな気持ちを抑え、とにかくまっすぐなその道を、どこまでもどこまでも歩き続けたのだった……。
 帰国してから数年のあいだ、夢のなかでワルシャワの街を彷徨うことがよくあった。それはたいてい現実世界で行き詰まったものを抱えて迷っているときだった。夢のなかのワルシャワは、自分の記憶に加え、絵葉書で見た積み木のような街の航空写真や、アンジェイ・ワイダやキエシロフスキーあるいはギリシャのアンゲロプロスの映像が綯い交ぜになった陰画のような世界で、埃っぽい石造りの建造物に、オレンジ色の街灯、路面の水溜まりは石油のように黒く光り、行き過ぎる人もみな黒いコートに身を包んでいる、そんな冷たい影絵のような場所をどこまでも彷徨うのだった。なにを求めて彷徨うのか。なにかを求めてはいるのだが、それはわからず、求める場所に行きつく気配もない。けれど焦りもなくて、ぼんやりとぐるぐる同じところを行ったり来たりした。そして目が覚めると、行き詰まった問題に新たな気持ちで向かい合おうという力が湧いているのだった。いつのまにかワルシャワは、疲れた心が彷徨するための迷宮都市となっていたのだ。

 それから三年後のことだった。ずるずる引っ張った挙げ句にろくに通っていなかった大学院を中退し、ついで自前の演劇グループを解散せざるをえない状況に陥った。中退は自分の責任として、グループの解散には人間関係の崩壊も絡んで少なからずショックがあった。そのせいか、なにをする気力もなくなり自室に引きこもってしまった。バイトもやめ、ちょっと郊外の、呼ばなければ友だちも来ない部屋で、誰とも会わず毎日一人でぐだぐだしていた。夜は本を読んだりテレビを見たりして、明け方眠っては太陽が空にあるあいだはずっと寝て、夜になるとまたもぞもぞ息をしたりしていた。
 仲間を切り捨てたわけではなかったが、同じ目標を持って関わることはもう無理だと思っていた。というのは、自分としてはギリギリまで関係を支えようと耐えたし、ダメだと思って手を離したときは本当にダメだったと思っていたからだ。みんなからすれば、僕に見捨てられたと思ったかもしれなかったが、しかし、こちらとしては裏切られたのは自分のほうだと卑屈になっていた。だから「人生いざとなると誰も助けてはくれないのだな」などと嘘ぶいて、繭のなかへと閉じていったのだ。
 ほんとうに孤立してみると、やるべきこともなく、自分が何者なのかもわからない時間は、外国の見知らぬ街に放り出されたときとおなじ、心の迷宮だった。
 しかし驚いたのは、そんな無為な生活のなかで、いつのまにか夜型生活が普通の昼型生活になっていったことだった。見知らぬ街を探検する代わりに、毎日明るい太陽の光のなか寝そべって、いろんな人の日記や伝記、書簡を読みふけった。とくに小津安二郎の日記とサティの書簡集を覚えている。どちらもほとんどドラマ性のない、何を食べたとか、何を送ってくれとかいう事実だけを淡々と記したものだったが、わくわくしながら読み、さらに読みながら眠り、眠りながらも読んだことを覚えている。
 そしてふいに、ある日、迷宮の出口が見えた。向かうべき方向が見えたのだった。決心した。そうだ、いまからさき一年間とにかくがんばって働いて、お金を貯めて、イギリスへ行こう。イギリスへ行って、演劇の勉強をしてこよう、今しかできないことをしよう。こつ然と前向きなエネルギーがふつふつ湧いてきたのだった。

 人は帰るために旅をする、と言ったのは古代中国の詩人だったか。その言葉に倣えば、人は抜け出すために迷路へと入っていくのだと思う。ワルシャワのときも引きこもりのときも、自然な流れのなかで、半ば意識的に半ば意識しないで迷宮へと入っていき、やがて偶然と必然のはざまで出口を見い出したのだった。
 迷うときは大いに迷うべきなのではないか。方向感覚も、自分の立っているポジションも見失えばいい。そのときこそ、理性も欲望も存在もめまいを起こしたように機能不全になって、普段は閉ざされた自分の心の深いところへ降りてゆくことができるのだろう。やがて時が満ちれば、そこからふたたび浮き上がって、新しい力を手に入れることができるのだから——。

2011年2月5日土曜日

雪よ、林檎の香のごとくふれ



 父が死んでから、ボクは取り憑かれたように戦前・戦後のふるい日本映画を見つづけた日々があった。
 父が少年としてまた青年として生きた時代がどのようなものだったのか、この眼でじかに見てみたいという思いがあった。と同時に、現在行き詰まった自分の人生にとってもそのような歴史的な探索が必要だと感じていた。
 だから戦前の日本といえば、たとえば小津安二郎の「生まれてはみたけれど」や溝口健二の「浪華悲歌」などが浮かぶし、敗戦・戦後直後の日本といえば、成瀬巳喜男の「浮雲」や黒澤明の「わが青春に悔いなし」などのいろんな場面が頭をよぎって、それらは、戦争が迫っているからといってただ閉塞的で暗いわけでも、物がなくて貧しいからといって陰惨で汚いだけでもない、それまで知らなかった、まったくちがった時代のイメージを与えてくれるのだ。
 一方には、あまりに理不尽でどうにもならない現実がありながら、それでも人びとは人間らしく活き活きと、たくましく生きていたのにちがいないのだ。



 その年の正月が終わり一月も下旬になったころ、脳梗塞のせいかアルツハイマーのせいか以前より急激に認知症が進んでいた父が、とつじょ嚥下障害になり、なにも食べられず飲み込めずというので入院となって、結局その入院をさかいに二度と家へは戻れぬまま、院内感染で肺炎を併発し、意識もなく、帰らぬ人となってしまったのだからすべてはあっけなかった。正月に帰省したときはまだボクの顔を見ても自分の息子だと認知できていたことを思うとなんだか奇妙な感じだった。
 父が入院していた六か月のあいだ、ボクは東京から毎週あるいは隔週、週末の病院へ電車か高速バスで通った。そして、それが平日のあいだ終日ひとりで看病を続けていた母の、家へ帰っての家事と休息の時間となった。
 そこでボクは、静まりかえった夜の病室の、意識のない父のかたわらで、父が生きた戦前・戦後の日本へ思いをめぐらせたのだ。看護婦の用意してくれた簡易ベッドに寝そべって、田村隆一の書いた若き日の荒れ地の詩人たちの物語を読んだことを思い出す。
 迫りくる戦争と死の足音に脅かされながら、若き詩人たちが詩と芸術のなかに真実を見つけようと苦闘した、青春の日々。その葛藤の記録を、生のしめくくりにいる父の現在と過去、また不甲斐ない自分の今とに重ねつつ、ボクは黙って本のページをめくっていった。
 意識はないが、そのときはまだ人工呼吸器は必要なく、自前の肺から流れてくる父の寝息を聞きながら……。



 父が戦争へ行ったことがあるのは知っていたが、その話をじかに聞いたのは後にも先にも一度きりだった。
 それは、認知症によって父の記憶や認識が曖昧になり始める直前、まだ記憶も認識もしゃんとしていたある正月のこと、帰省していたボクと二人で、テレビを見ながら酒を飲んでいたとき、まったく唐突に、バチッと父はテレビを消した。子どものころ、そんなふうに突然テレビを消すと、決まって説教を始めたり、カミナリを落としたりするのが父のパターンだったから、ボクは一瞬、子どものころを思い出し、ビクッとなってしまった。
 しかし、しーんとした空気をやぶって父が話し始めたのは、意外にも少年時代に戦争へ行ったときの話だった。
 自分でも唐突なのは承知していたのだろう、
——お父さんは戦争に行ったけどな、それは北海道でなあ……。
 などと、前置きらしきものはありながら、しかしいったいなぜいまその話をするのか、ボクにはわからない。ただ、父のなかでは突然その回路がつながって、どうしてもいまそれをボクに話しておきたくなったことだけは察せられた。
 父が戦争へ行ったことがあるのは知っていた。そして計算すれば分かることだが、終戦のとき、父はまだ十五歳で中学生の年齢だった。これは父の死後人から聞いたことだったが、父は母子家庭のため、家の食い扶持を減らすために、またわずかな給料を家に入れるために志願して出征したというのだった。わずか十四か十五の少年のときに。
 しかし、そのときのボクはそんなことは知らず、父はただ血気盛んな軍国少年だったのだろうとばかり思いながら話を聞いていた。もちろんそれなりに軍国少年は軍国少年だったのだろうけれど。
——お父さんが配属されたのは、北海道の稚内でな、そのころはもう、ソ連の艦砲射撃が毎日パンパンパンパン、まあ怖かったわあ。
 ソ連が日本に侵攻してきたのはアメリカが原爆を落とした後だから、終戦も間近の八月の話だ。内地とはいっても外地も同然の北海道の北の端の稚内、いわば国境の最前線で、まだヒゲも生えそろわない少年の父にとって毎日続く本気の艦砲射撃はさぞや恐ろしかったろう。ソ連軍がいつ上陸してくるか気が気でなかったろうと思う。そののちに終戦があるなどとはつゆ知らず、周囲のかけ声はみないっせいに一億総玉砕なのだから。
——パンパンパンって鳴ってなあ。
 という乾いた声音が妙にリアルで、話しているそのときにも父の耳にはその音がまだ響いているかのようだった。
——ある日な、大佐(大将だったかな?)殿に呼ばれてな。大佐(あるいは大将)っていえば、もう上の上の上官だぞ。なにかと思って行ってみたら、風呂に入るから背中を流せと言うんだ。お父さんは嬉しくてな。誇らしい気持ちで大佐(あるいは大将)殿の背中を流したな。嬉しかったなあ、などと言う。
 そのあと、大佐(あるいは大将)からなにか褒美を賜ったらしいけど、なにをもらったんだったかは覚えていない。覚えているのは、そのときのボクには大佐だろうが大将だろうが、そういう戦前社会の軍隊式の上下関係など愚かしいとしか思えず、背中を流そうが褒美をもらおうが、そんなことのなにが嬉しいものか理解もしたくないということだった。
——けどな、野外のバラックには、連れて来られたチョンとかチュンとかがいっぱい働かされてるわけだ。家畜みたいに。まあ、汚くて汚くて……。
 チョンというのは朝鮮人で、チュンは中国人のことだ。子どものころも、父はよくテレビで海外ニュースなどを見ながら、「チョンがチョビチョビすんなー」とか「チュンがなにをー」とか叫んでいたのを思い出す(「チョビチョビすんなー」は「調子づくな」という山梨方言)。そういうとき、ボクはいつも戦後生まれのリベラリズムで、父の差別感覚を軽蔑していた。
 ただ、
——でも、あいつらとよく○○もしたよ。
 と告白するように言う。○○がなんだったかは忘れてしまったけど、悪いことではなかったと思う。いっしょに汚い飯を喰ったとか、遊んだとか、そういうようなことだ。なにしろ父は下っ端も下っ端の中学生だったのだから。

 まあだいたい、父はそんなようなことを一人でしゃべると、満足したのか、もうなにも出てこないのか黙ってしまった。いや、よく見たら寝てしまっていた。
 ボクには艦砲射撃も軍隊も強制労働もよくわからず、もっと聞きたいという気持ちはありながら、それを聞き出すうまい質問もできず、結局なんで父がそんな話をしたのかさえ聞きそびれてしまった。
 しかし、いま思うとすべては戦争だったのだ。なにが起こるかわからなかったのだ。そのままソ連軍が上陸していたら、日本はドイツや朝鮮のように分断されていたかもしれず、父もまた戦死していたか、捕虜になってシベリアだったか、いずれにしてもボクはこの世に生まれてはいなかったろう。
 少年の父がそのとき、その上官の背中を流しながら感涙した背景には、みなが明日をも知れぬ状況があったからだとずっと後になって気づいた。それと、その稚内での戦争体験は、つまり父の少年時代は、何十年という時を経て、いつしか父のなかで「結晶化」していたのだということにも……。



 苦しい苦しい人工呼吸器をやっと外してもらい、父は息を引き取った。それから、遺体となってやっと自宅に帰ってきて、ゆっくり一晩を過ごし、棺に入って、さあ永遠に家を出ていくというとき、その胸元に添えられたのは、出征してゆく少年兵へ向け寄せ書きされた日章旗だった。つまり、父の「少年時代の結晶」だった——。
 それを見ながら、ボクは、父の人生にとって戦後何十年はなんだったのだろうかと、さびしい思いで問いかけていた。
 戦後、一代で築いた会社を、いや築いたというより続けた会社を、子どもたちの誰もが継がないとみるや、父はあっさりとお終いにした。あとは悠々自適なマンション経営生活。それから引退生活の暇のなかで、父はまずリビングの壁にその「少年時代の結晶」を飾ると、やがて持病の糖尿病が悪化し、認知症がはじまって行った。
 そのときすでに、父にとって、戦後のあくせく働いたことのすべては過ぎ去った出来事となっていたのか?
 けっきょく最期の彼に残ったのは、その、純然たる日本の少年兵として生死の境へすすみ征く、ホリウチヤスゾウ君へ向け寄せ書きされた日章旗だけだったのか?
 いずれにしても、あの日の大佐の背中を流した少年の感激と緊張と不安は結晶となって、死ぬまで父の心から消えなかったのだ。



 火葬場の空は晴れていた。煙突からは、父の体を焼いた煙がのろのろと昇っていた。
 待合室のベランダで煙草を吸っていると、母方の叔父が来て言った。
——お前のお父さんは、まあ、欲の深い人だったけど、警察に捕まるようなことはしなかった。悪いことはしなかったな。
 おいおい、オジさん、この状況でスゴいことを言うなあと思ったけど、僕は昔からこの叔父さんの正直なところが好きだったし、じじつそうだと思った。父は欲は深かったが、悪いことはしない人だった。いわゆる法的にはという意味で。さんざん母のことは悲しませたけれど……。
 でもまた、最後まで母方の親戚じゅうから心安く受け入れてもらえなかったのもほんとうだった。みんな父を怖がっていた。親戚だけではない、父の周りの人はだれもかれも、気性の荒々しかった父の内側に活き活きとした人間らしい面があろうとは思っていなかった。
 その日の火葬場の空はほんとうに晴れていた。あんまりにポッカリと晴れていて、みんなホッとしているようだった。もしも、ひどい天気だったら、機嫌の悪いときの父とつき合う息苦しさを思い出して、みんなきっと心落ちつかなかったにちがいない……。



 あんなにがんばった戦後は、父にとってなんだったのか、なんでもなかったのだろうか、という疑問がボクのなかに深く残った。
 ボクはボクで行き詰まりのなかにいたのだ。冷戦構造の崩壊から、日本では平成となりバブルがはじけ、やがてオウム事件、サカキバラ、そして9・11へと世界が押し流されてゆくなかで、自分の立ち位置が砂上の楼閣のようにさらさら流されてしまっていった。
 いつのまにか世論には、かなりの保守派の意見がまかり通るようになっていて、彼らの主張の多くは戦後のゆがんだ民主主義への批判だ。憲法への反論だ。しかし戦後の価値観のなかで育ったボクとしては、もちろんそういう退行的な論調に組みする意思はないし、浅薄な現実論に賛成はしないのだけれど、もしかしたらこの今の行き詰まりの原因は、戦後の民主社会の出発点にあったのではないか。敗戦、そして戦後という局面で、日本人が引き受けたことまた捨てたことは真実なんだったのか。そこにはなにか「ゆがみ」があったのではないかと思うようになったのだ。



 一つ確かなことがあった。それは、あの八月の、あの日の日本の空もおなじようにポッカリと晴れていたということだ。
 あの日、生きる心棒をなくして呆然としている人も、閉塞感から解放されて泣き出す人も、日本じゅうのみんなが、平等に、ポッカリと、晴れて「自由」という名の空の下にいたことだ。空腹感とともに。
 そのことがむしょうにボクの心を揺さぶるのだ。
 たとえば、吉田喜重氏の「秋津温泉」という映画。終戦の知らせを聞いたとたん、岡田茉莉子と長門裕之は石だらけの荒野を子どものように、石ころのように駆け出した! ローリング・ストーン!
 たとえば、田村隆一の詩のこんな一節。

世界の真昼
この痛ましい明るさのなかで人間と事物に関するあらゆる自明性にわれわれは傷つけられている!

 あの八月の真昼の明るさの下で世界は壊れ、それでみなが人間であり、まだ生きていて、これからも生きていくんだというあたりまえのことが露出したのだ。そのことにだれもが少なからず驚き、おののいたのだ。
 それからは、食べるものも着るものも何もなかったが、束縛するものもまたないなかで、ここから、これから、新しいことが始まる、新しいことができる、そんな自由な空気が満ちていたはずなのだ。
 そんな空気のなかから民主主義の理念が、憲法とともに、ボクら日本人のなかに根づいていった。
 それはたしかなことなのだ。



 だが、げんじつの眼に浮かぶ戦後は、泥色の人間世界。
 自由と混沌とが背中合わせになった世界だ。
 トタンのバラックでできた闇市を行き交う人々の群れ。大きな風呂敷包みを背負った人や、ゲートルを巻いた人。一攫千金を狙うギラギラした目つきや、ジープに乗ったアメリカ兵、派手なパンパンやモンペ姿の女たち、飢えた子どもやらがひっきりなしに通っていく。
 泥水のはねる道路。ションベン臭い裏路地。曇った空と、リンゴの唄——

赤いリンゴに唇よせて
黙って見ている青い空

 むき出しになったのは、人びとの自由の感覚だけではなかった。ポッカリとあいた心のすきまや空腹感から、動物的といってもいい、本能的な欲望の力も噴出し始めていたのだ。さあ、賽は投げられた。どっちに転ぶ? 自由と本能との裏腹の運命線。さまざまな夢と現実が錯綜しながらせめぎ合っていたのだ。
 そこへ、父は、戦争から生きて帰ってきた。価値観がなにもかも変わってしまった世界で傷つきながらも、やっと青春を、第二の人生を生き始めた、そのときの父が仰いだ空もやっぱりポッカリ晴れていたろうか? わからない……。わからないが、埋めようもない心のすきまと空腹感はあったろう。それを必死になって埋めるために、父はけんめいに走り出したのだろう、時代とともに……。


 
 父の四十九日の席で、何十年振りか、父の兄の奥さん、つまりボクにとっての伯母に会った。伯母はいまは大月市に暮らしているが、子どものころは近所に住んでいて、正月などによく泊まりがけで遊びに行ったものだ。その伯母から法事の席で、戦後すぐのまだ若く、遊びまくっていた父の話を聞いた。
 戦後十年くらいだろうか。焼け跡などはもうほとんどなく、まだ貧しかったが、みんないきいきと、またギラギラと生きていた時代。そのころ父の兄へ嫁いだ伯母は、小さな家で、父のことも含めホリウチ家ぜんたいの家事を引き受けていた。
 戦争から生きて帰ってきた父は、もはや軍国少年ではなく、始まったばかりの民主主義と競争社会のなかで血気盛んで、かなりのやんちゃだったようだ。夕方、仕事から帰って、伯母のつくった夕飯を喰うと、毎日のように夜の街へ飛び出していったという。背は低かったが(ちょうどボクくらい)、パワフルで積極的だった父はよくモテたらしい。たぶん、真っ赤なかわいい娘っ子たちを追っかけて、映画に行ったり、バイクで遠出をしたりもしたのだろう。
 極度に緊迫した時代から一転、自由と解放の時代へ。さらに野心と競争の時代へ。そのなかで、ハメを外して狂騒していた父の青春をボクは思う。一方では、自分で事業を興し商売を始めたりもするのだけれど、それも時代の興奮の力にちがいないと思いつつ。
 そしてボクの母と結婚し所帯を持ったのは、さらに四十歳のときだったのだ……。



 戦後十年、二十年……。皮をむいたリンゴが変色してゆくように、あっという間に自由の空気は別のなにかに変質していったのか。
 
空は
われわれの時代の漂流物でいっぱいだ
一羽の小鳥でさえ
暗黒の巣にかえってゆくためには
われわれのにがい心を通らねばならない

 物も迷いもなにもなかった終戦から十年。そのときにはもう田村隆一の心の空には、時代のにがい漂流物がいっぱい漂っていた。いったい、どこで、なにが、方向をあやまってしまったのか? ボクはそう問わずにいられない。
 なによりも物質中心の社会がある、いまも。経済開発の名のもとに戦後ずっと続いている、自然破壊、環境破壊、精神破壊。よい就職と給金をゴールと定めた教育制度と教育環境。患者の心身のバランスも生きる質も無視した無意味な延命医療。こんなものたちが、あの日、八月の晴れわたった空の下で、父たちの世代が夢見た新しい時代だったのか?
 資本主義、自由主義、民主主義……。戦後日本は、これら三つのお題目がからみ合ってできた大きな歯車だ。それが、ボクたちをずんずん、ずんずん突き動かしてきた。そして、これからも、さらに先へずんずん、ずんずん突き動かそうとしている。どこまでも! ずんずん! ずんずん! どうにも誰にも止められそうにない!
 ——なんて苦々しいんだろう!
 変革し修正するチャンスも機運もかつてはあったのに、すべて押しつぶされ、失われ、まるで「千と千尋の神隠し」に出てきた巨大な赤ん坊のように、思考は停止したまま体ばかりが巨大化してしまった、それが現代社会だ。いまのボクだ。あまりに巨大化したシステムのなかで、そのシステムそのものを相対化する視点が持てなくなっている。
 そう、戦後の「ゆがみ」はあった。それは、八月のあの日に社会は理性的に出発したにもかかわらず、いつのまにか経済発展を最優先するようになっていたことだ(経済発展とはつまり日常的には経済効率、巨視的には経済成長のことで、その効率や成長を優先するところに理性的な所行はない)。民主主義も自由主義もそれ自体は輝かしい。しかし、いつのまにか資本主義とその発展をバックアップするための理念的な道具に成り下がっている。「ゆがみ」は変革も修正もされることなく、数十年のあいだに坂をくだる雪玉のように膨れ上がって、どうしようもないほど巨大になってしまった……。
 そして混沌のなか、光は見えないなかで、ボクらのたましいは窒息しかけている……。
 


 四十九日の法事が終わった後、ホッとした母がボクら兄弟を集めて静かに話しはじめた。
——お母さんもはじめて知ったの。相続の手続きのためにお父さんの古い戸籍謄本を、本籍のある大阪から取り寄せて、それではじめて知って驚いてしまったの。
 いかにも戦前に書かれたらしい古くさい筆跡の謄本のコピーを、母は開いて見せた。
 そこから読み取れることは、父の父、つまり父方の祖父はもともと朝鮮人だったということだった。若いころに日本人の家へ養子に行ったので、祖母と知り合ったときには国籍はすでに日本人だったが、もともとの出自は朝鮮人、朝鮮の済州島の出身だった。
 つまり、父の血の半分は朝鮮人だったのである。「チョン」だの「チュン」だのと蔑むように叫んでいた、あの父が……。少年時代はバリバリの軍国主義だった、あの父が、である……。
 あまりの突然のことに、ボクら兄弟だれひとり言葉が出てこない。
——お父さん自身はこのことを知っていたのかね? そんな話、お母さん、一度も聞いたことがなかったよ。
 さらにその謄本から読み取れたことは、父の父と母つまり祖父と祖母は、大阪で出会って所帯を持ったがうまくいかなかったのか、祖母は二人の男の子を連れて実家、ホリウチ家のある山梨へ戻ってきたということだった。
 そのとき、父はまだ二、三歳。父親の顔も覚えていなかったろう。誰かから教えられなければ、ことの次第を理解することもできなかったろう。そして死ぬまでのあいだに誰がその事実を父に教えたろうか。
——でもね、むかし、自分の父親だという人のお葬式へ、お兄さんとふたりで千葉まで出かけたことがあったのよ。やっぱり知ってたのかしらねえ。
 その話は聞いたことがある。だとすれば、父はやはり知っていたのか。いや知っていたのだ。
 それでも、それをおくびにも出さなかった、妻にも話さなかったのは、日本人として、生きるか死ぬか、戦争へ向かったあの日の少年時代がずっと父のなかにあったからだ。また、戦後の貧窮と混乱を、百パーセントの日本人だと信じて歯を食いしばり生き抜いた、それが父の人生だったからだ。



 だけど……とボクは考える、その人生は「矛盾」から逃げた人生でもあった、と。
 戦前から戦後へ。時代の変化は、父に大きな「矛盾」をも突きつけたのだ。少年時代の憧れとそれを全面否定された後の青春の奮闘にしても、朝鮮人の血が流れていることを知りつつ全き日本人として生き抜こうとしたことにしても、それらは父のなかの「矛盾」であり、父はそれらを解消しようとはせず、心の奥に押しやって、まるで逃げるように走り続けた。
 ボクは考えるのだ、それは、その「矛盾」は、そのまま日本の戦後社会の姿だったのではないか——。
 つまり、戦前から戦後への変化のなかで、社会の深層にも、父と同じような「矛盾」が残ったのではないかと。あるいは「軋轢」や「ひずみ」といってもいい、いずれ解決しなくては心が病んでしまいかねない不整合なものだ。それを、戦後数十年のあいだ、だれもが存在しないかのように無視し、忘れ去ろうとしたけれど、じつはいまも人々の心の奥に、社会の深層に、それは歴然と存在しているのではないか。そうした心の呵責が、経済重視、物質重視の社会へと走らせているのではないか。
 そして、記憶の防波堤だった父らの世代が去っていくいま、忘れ去られたはずの「矛盾」が蘇り、より大きな「混沌」となってボクらに襲いかかってきているのに、そんなものが存在しているとは戦後生まれのボクらには想像だにできず、どう対処すればよいのやら、ただ慌てふためいているばかり……。というのが、社会の行き詰まり感やボクらが魂を窒息させていることの実相なのではないのか?
 あらためてもっともっと真っ正面から、ボクらは戦前の日本と向き合う必要があるのではないか?

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 父が、母と結婚して所帯を持ち、守るべきもの、育むべきものを身に引き受けた年齢を、ボクは過ぎてしまった。
 なのに夢見たものは手に入れられず、どこにも行き着けないまま、さらに父を失い、愛した犬を失い、さまざまなものを失って——そのうちのいくつかは二度と取り戻せない。その事実だけで心が萎みそうになって……いまやもう海図をなくしたオンボロ幽霊船の気分だ。目的地のイメージもぼんやりと、光もなく、逃げ場もなく、息苦しい時代を漂っている……。
 しかし——、それでもオンボロ船は航海を止めて陸に上がろうとは思っていないらしい。陸に上がるくらいなら、野垂れ死んでもいい、消息不明になってもかまわない、このまま漂い続けてやろうと思っているのだ!

——ごめん、親父。

 思い出すのは——徹夜の看病明け、まだ寝息を立てている父のそばを離れ、朝の空気を吸いに病院の外へ出て、ふうっと息を吐いて空を見上げると、山梨には珍しい雪がちらほら舞ってきたことだ。降るのでなく舞っているだけの、その白く小さきモノたちもまたずっと遠くの空の彼方からやってきたのだなあと思ったことだ——
 それから、食べ物をうまくノドに通すことができない父は、点滴や胃ろうで栄養を取っていたけれど、動くことも外へ出ることもできず、窓から外を眺めることもできない。なにも楽しみのない生活のなかで、母がせめて味わうことくらいさせてやりたいと、アイスクリームやらゼリーやらいろんな流動食品を試したこと。擦ったリンゴの香りがふわっと病室に広がったことだ——

 きみかえす 朝の舗石さくさくと 雪よ林檎の香のごとくふれ
(北原白秋「桐の花」より)