2011年2月26日土曜日

迷宮へ

 はじめて行った外国の街は小雪降るワルシャワだった。一九九二年のことだ。ソ連が崩壊したばかりで、つい最近まで共産主義だった街並みには「商業広告」というものが一切なく、暗褐色の石造の建造物が海の底のように並んでいた。資本主義バリバリの国から来た自分に、それはなんだか心許ない風景だったが、すっきりと美しくもあった。
 はじめての海外で一人旅で日本人はまったく見かけない街で緊張していた。普段生きている場所とは文化も言葉も風景もまったくちがう世界にひとり放り出されたのだ。魂はゼリーのように震え、些細なできごとにも冷や水を浴びせられたように動揺したり、戸惑ったり、感激したりした。
 それでも、ただ観光するだけじゃつまらない、できるだけ劇場を見て回ろう、できればなにか公演を見てやろうという魂胆があった。ホテルのベッドに買ったばかりのワルシャワの街路図を広げると、劇場を示す仮面マークがざっと数えても二十から三十、かなりの数記されているではないか。まずは街の中心からひとつひとつ回ってみた。だがシーズンオフなのか、公演をやっているところがなかなかない。ふと見つけた街の塀のポスターの、ポーランド語の日付と時間は自分にもわかった。今夜公演があるらしい。だが場所は地図より外側の郊外のよう。通りすがりの優しそうなオバさんを思い切って呼び止め、書かれた住所が自分の持ってる街路図のどのあたりなのか尋ねてみたが、よくわからないという。途方に暮れた僕の表情がよほど切なかったのか、オバさん、塀の向こうの工事現場のオジさんたちに大声で尋ね出した。それでも拉致が明かないと見るや、今度は道行く人を次々と呼び止めた。ついには、足を止めた人びとみなで「この住所はここだ」「いやいやこっちだ」と議論を始めたのだ。なんて素朴な良い人たちだろう! 感動し、勇気をもらった勢いで郊外へ出ることになったのだった。
 よくわからない場所でタクシーを降ろされ、目の前は殺風景な住宅街の一直線の道だった。右側の高い塀の向こうは墓地で、左側に並ぶ無機質なコンクリートのアパート棟には人影がまったくない。上空からは灰色の風が吹きつけてくる。「本当にこの先に劇場なんかあるのだろうか?」絶望しそうな気持ちを抑え、とにかくまっすぐなその道を、どこまでもどこまでも歩き続けたのだった……。
 帰国してから数年のあいだ、夢のなかでワルシャワの街を彷徨うことがよくあった。それはたいてい現実世界で行き詰まったものを抱えて迷っているときだった。夢のなかのワルシャワは、自分の記憶に加え、絵葉書で見た積み木のような街の航空写真や、アンジェイ・ワイダやキエシロフスキーあるいはギリシャのアンゲロプロスの映像が綯い交ぜになった陰画のような世界で、埃っぽい石造りの建造物に、オレンジ色の街灯、路面の水溜まりは石油のように黒く光り、行き過ぎる人もみな黒いコートに身を包んでいる、そんな冷たい影絵のような場所をどこまでも彷徨うのだった。なにを求めて彷徨うのか。なにかを求めてはいるのだが、それはわからず、求める場所に行きつく気配もない。けれど焦りもなくて、ぼんやりとぐるぐる同じところを行ったり来たりした。そして目が覚めると、行き詰まった問題に新たな気持ちで向かい合おうという力が湧いているのだった。いつのまにかワルシャワは、疲れた心が彷徨するための迷宮都市となっていたのだ。

 それから三年後のことだった。ずるずる引っ張った挙げ句にろくに通っていなかった大学院を中退し、ついで自前の演劇グループを解散せざるをえない状況に陥った。中退は自分の責任として、グループの解散には人間関係の崩壊も絡んで少なからずショックがあった。そのせいか、なにをする気力もなくなり自室に引きこもってしまった。バイトもやめ、ちょっと郊外の、呼ばなければ友だちも来ない部屋で、誰とも会わず毎日一人でぐだぐだしていた。夜は本を読んだりテレビを見たりして、明け方眠っては太陽が空にあるあいだはずっと寝て、夜になるとまたもぞもぞ息をしたりしていた。
 仲間を切り捨てたわけではなかったが、同じ目標を持って関わることはもう無理だと思っていた。というのは、自分としてはギリギリまで関係を支えようと耐えたし、ダメだと思って手を離したときは本当にダメだったと思っていたからだ。みんなからすれば、僕に見捨てられたと思ったかもしれなかったが、しかし、こちらとしては裏切られたのは自分のほうだと卑屈になっていた。だから「人生いざとなると誰も助けてはくれないのだな」などと嘘ぶいて、繭のなかへと閉じていったのだ。
 ほんとうに孤立してみると、やるべきこともなく、自分が何者なのかもわからない時間は、外国の見知らぬ街に放り出されたときとおなじ、心の迷宮だった。
 しかし驚いたのは、そんな無為な生活のなかで、いつのまにか夜型生活が普通の昼型生活になっていったことだった。見知らぬ街を探検する代わりに、毎日明るい太陽の光のなか寝そべって、いろんな人の日記や伝記、書簡を読みふけった。とくに小津安二郎の日記とサティの書簡集を覚えている。どちらもほとんどドラマ性のない、何を食べたとか、何を送ってくれとかいう事実だけを淡々と記したものだったが、わくわくしながら読み、さらに読みながら眠り、眠りながらも読んだことを覚えている。
 そしてふいに、ある日、迷宮の出口が見えた。向かうべき方向が見えたのだった。決心した。そうだ、いまからさき一年間とにかくがんばって働いて、お金を貯めて、イギリスへ行こう。イギリスへ行って、演劇の勉強をしてこよう、今しかできないことをしよう。こつ然と前向きなエネルギーがふつふつ湧いてきたのだった。

 人は帰るために旅をする、と言ったのは古代中国の詩人だったか。その言葉に倣えば、人は抜け出すために迷路へと入っていくのだと思う。ワルシャワのときも引きこもりのときも、自然な流れのなかで、半ば意識的に半ば意識しないで迷宮へと入っていき、やがて偶然と必然のはざまで出口を見い出したのだった。
 迷うときは大いに迷うべきなのではないか。方向感覚も、自分の立っているポジションも見失えばいい。そのときこそ、理性も欲望も存在もめまいを起こしたように機能不全になって、普段は閉ざされた自分の心の深いところへ降りてゆくことができるのだろう。やがて時が満ちれば、そこからふたたび浮き上がって、新しい力を手に入れることができるのだから——。

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