2011年6月7日火曜日

水の巡礼変奏曲

「シューベルト、ピアノソナタ第16番 第2楽章」より

 ほら、昨日夕暮れに思わぬにわか雨が降ったろう。すぐにやむかと思ったけど、なかなかやまず、取りかかった仕事もなんだか手につかず、僕は濡れた風景を窓からぼんやり眺めていたんだ。すると、向こうの山のふもとの鬱蒼とした薮のなかにある、小さな池のことが心に浮かんだ。あの青灰色に淀んだ水面にも、雨はしずかに落ちていることだろう。ぽつり、ぽつ、ぽつ、誰しらず、波紋が同心円に広がって、重なり合って、濁ったあぶくが浮かんでは消え、浮かんでは消えているだろう。西の空はもう晴れて、雲間からは光のシャワーが降り注ぎ、のぞいた空はやんわり茜に染まっているというのに、あの青灰色の池には、誰しらず、にわか雨が降っているんだ。ぽつり、ぽつ、ぽつ、波紋が同心円に広がって、重なり合って、細かなしずくが弾けては消え、弾けては消えているんだ。もしかしたら、鬱蒼とした木立をすりぬけた一筋、二筋の夕日が、弾ける刹那のしずくを射抜くかもしれない。その瞬間プリズムのように、楽しかったことや悲しかったこと、失われた時間が虹色に光って暗い薮地を照らすかもしれない。けれど、それもつかの間で、なにもかもすぐに灰色の水底へと沈んでゆくんだろうなって、そんなことを思っていたんだ。

 それからカーテンを閉じて、暗い部屋のなかでじっと雨の音を聞いていた。そしたら、いままさに沈もうとする西日がカーテン越しにさし込んできて、部屋中をシャンパンのような淡い金色に染めたんだ。なのにまだ雨は降っている。いや、ますます強く、規則正しく楽しげに聴こえている。日差しはあるのにあんなに雨が降っているなんて、狐の嫁入りだったのか、それとも幻聴だったのか。とにかく、なんだか、時空のすきまに落っこちたような不思議な感じさ。なぜだかふいに、子どもの頃におばあちゃんがくれたドロップの味が口いっぱいに広がってね。嘗めるたびに変わった七色の味。懐かしい味。それから、友だちと裏山へカブトムシ採りに行って、雨に降られて近くの家の軒下で雨宿りしてたら頭のうえに大きな虹が架かっていたことや、家で特撮映画の最終回、ヒ—ローが宇宙へ帰ってしまってなんともいえない切ない気持ちで窓から外を見たら、豪雨で道が川のようになっていて驚いたことや、学校からの帰りに広い校庭を通り雨がまるで生き物のように通過していったことなんかが次々と浮かんできて、少年時代のときめきに胸が高鳴るようだった。ソファに寝そべって目を閉じると、そこにはもうまぶしい夏の空が輝いていたんだ。日が沈んで、部屋は真っ暗だったのに。

 草の匂いがする。それを踏みつぶし駆け抜けてゆく少年たち。うしろに残された、風にそよぐ薄桃色のリボンと黄色いテント。あれはなんのキャンプだったろう? 湖畔の草原だ。ボートは湖面をすべり、オールが水しぶきをあげた。朝もやの向こうに見えた小島の影がなんとも霊妙で、朝つゆの匂いや淹れたてのお茶の香りに僕はわけもなく興奮したっけ。それから、昨晩テントを打った雨音がまだ耳に残っているというのに、ロッヂからはもう早朝レッスンのチェロの音が聴こえてきて、僕はチェッと舌を鳴らしたんだった。それからそう、あの、夕暮れだ。キャンピングカーのエンジン音。ガソリンの匂い。慌てふためくみんなから離れて、僕は濡れたままで強く膝を抱えてた、あの子らの無事を念じながら。ロッヂからはまだ先生のチェロの音が聴こえていたような気がするが、そんなはずはない、息子と娘の安否がかかっていたのだから。赤い鳥居。神様の住む小さな島だった。ボート遊びのさなか、ちょっとした冒険心から彼と彼女をそこへ誘ったのは僕だった。僕はその兄妹のことがとても好きで、遊ぶときはいつも一緒だった。東ヨーロッパ人特有の明るい髪と瞳の色が持つロマンティックな雰囲気と、故国を離れてこの地に暮らすことの哀愁に心惹かれたのかもしれない。内気かつ執拗という芸術家気質もよく僕の性に合ったのだろう。もしかしたら僕はチェロを習うよりも、ふたりと親しくすることを求めていたのかとさえ思う。

 小島に上陸したまではよかった。けれど午後から急に雲行きが変わって、僕ら三人は立ち往生してしまったのだった。豪雨が容赦なく肩を打った。慌てた僕らは小さな島を上下に徘徊し、余計に体力を消耗して疲れ果て、神社の小さな祠のなかにうずくまった。兄である彼が妹の肩を支え、その二人の肩をすこし遠慮がちに僕が支えた。稲光が光り、雷が鳴った。あたりを雨がごうごう流れた。それは低くて深いチェロの響きに似ていたが、暖かみがなかった。途中で妹のほうが泥濘にすべって頭を打っていて、すこし朦朧としていたので、彼女を抱きしめる兄の肩は震えていた。僕は木々のあいだから灰色の湖面を見ていた。湖面はただ従容として雨を受け入れているだけだった。日暮れ前に雨がやむと、やがて大人たちが救助にきて、比較的元気だった僕から、憔悴していた兄妹を引きはがし、二人を車で近くの病院へと運んでいった。誰も僕らを責めなかった。そんな暇もなかったのだろう。しかし、僕はその事件をさかいにチェロへの興味を失い、先生もあえてそんな僕を引き止めなかった。そのあと、その兄妹がどうなったのかは知らない。しばらくして、冷戦の終結とともに、先生は息子と娘を連れて母国チェコスロバキアへ帰っていったと風の噂で聞いた。ただ十数年後、仕事でプラハを訪れたときに僕はあの兄妹の影を見たような気がした。いや、それどころか、プラハの街路のそこここに、風になびくふたりの明るい髪と瞳の輝きを何度も見たし、ついには、そのリアルな幻影に追いかけられさえしたのを覚えている。何百年も変わらないプラハという街にただノスタルジックなめまいを起こしただけなのかもしれないけれど。

 すでに夜もふけ、雨もあがっていた。いつしか僕は追憶にも疲れ、そのままソファで眠ってしまったらしい。夢のなかで、どうやらプラハの移動遊園地のメリーゴーランドに乗っているんだ。つる草模様の浮き彫りがあったり、絹のカーテンが靡いていたりする、とてもアンティークなメリ—ゴーランドさ。同じところをぐるぐる回りながら、上がったり下がったり、追い越したり追い越されたり、歩くよりも少し速いテンポで、タラッタッター、ラッタッター、とっても愉快でさ。なんだか急に心が軽やかになって、ロケットで雲間をすり抜けて、衛星になって成層圏から地上を眺めてるみたいな心地さ。水は、海から蒸発して上昇して雲になる。その雲がさらに上昇して冷やされると、今度は雨になって地上に降る。それが地下にしみ込んだり、湧き上がったり、川になって地表を流れ、ついにはふたたび海に戻ってゆく。そんな大きな、水の循環をいちどきに眺めているような、いや、ちがうな、自分が一滴の水になってその巡礼を一気に早回しでくり返しているような感覚なんだ。「そうなのか!」 僕は声をあげた。「僕ら生き物の命も同じなんだ、ひとときもどこにも止まらず、つねに流転しつづけながら、それでいて、どこかへ消えてゆくこともない!」すると、耳元で「だいじょうぶ」って誰かが応えた。気がつくと、隣の馬車にあの兄妹が乗っているんだ。前の白馬には兄が、後ろの馬車には妹が、ふたりとも明るい髪を風になびかせながら、上がったり下がったり、追い越したり追い越されたり、歩くよりも少し速いテンポで、タラッタッター、ラッタッター、こちらを見て笑っている。「だいじょうぶ。みんな生きている。だいじょうぶ」 触れられるほどには近寄らず、見えなくなるほどには離れずに、ときに僕が魚で彼らが水で、ときに彼らがツバメで僕が風で、交差したり、キリモミしたり、ずっとずっと3人のまま、どこへ行き着くこともないままに僕らは夢のなかを流れていったんだ……

 こうしていま、晴れた空の下で川原に座っていても、なんだか夕べの夢の高揚感がまだ体に残っているようなんだ。ほら、むこうの山のふもとの鬱蒼とした薮のなかにある小さな池は、今日もやっぱり青灰色に淀んでいるだろうし、それでも地下のどこかで、この目の前の大きな川とつながってもいるんだと思う。きっとあの兄妹もいまも地球上のどこかで生きているんだろうな。あ、ツバメが川面をすべって、まっすぐに上昇していった! 大気の流れが安定してるんだ。よし、ツバメになった気持ちで空を飛んでみようか! ああ、なんて気持ちがいいいんだろう。このまま川の流れに沿って飛んでゆけば、視界の両側いっぱいに川の両岸が広がって、うねるような川筋のさき視界の上のほうに、海へと流れ着く河口が見えてくるはず。えっ、源流から河口まで、水はどれくらい長い旅をするんだろうって? そりゃ、多摩川とドナウ川ではぜんぜん違うだろうし、アマゾン川じゃあ魚が一生かけても河口へ辿り着かないかもしれない。でも岸辺に暮らす人びとの一生はどこでもあまり変わりないだろう。たとえ、その人生が30年だろうと、100年だろうと、命のきらめきに差はない気がする。おっと、気をつけて、乱気流を通り抜けるよ。雲間に入ると視界ゼロだから。このまま成層圏を突き抜けよう、そしたら、まるで夕べの夢の再現じゃないか。いや、ちがう、再現じゃない、変奏だ。これは夢じゃない。いま僕らはちゃんと目を覚ましてる。ただツバメになったと想像して、水も、命も、世界のすべてが循環しているさまを俯瞰しているだけなんだからね。ほら、もうすぐ目の前に太平洋が広がる! さあ、日はまだまだ高いし、もっと上昇してみようか!

2011年6月4日土曜日

かえるリポート 葉っぱ編

——さて、本日のゲストは、かえる世界研究家の内江剛さんです。
——みなさん、こんばんケヨロン! 昨今の地球温暖化の影響から亜熱帯と化しているこの島国では、雨期ともなればじめじめじめじめ草木の陰で、かえるらがいかに我が世の春を謳歌し、どれほど高度な「かえる世界」を築いているか、みなさんはご存知か。「かえる世界」随一といわれるケロイチ大学への留学経験をもつ、わたくしが、今日はみなさんを知られざる「かえる世界の神秘」へとお連れしたいと思う。
——内江さん、よろしくお願いします。
——ご存知のとおり、かえると草木のつき合いはたいへん古く、すでに30万年とも50万年とも「かえる古事記」には記されており、少なく見積もっても10万年はくだらないというのが定説だ。しかし、今日は意外にみなさんに知られていない事実から披瀝したい。
——はい……。
——かえるにとって、草木は葉っぱ。花になんか興味なし。
(スタジオから笑い)
——そうなんですか(笑)。
——そうなんだよ! われわれ人間は草木というともう色鮮やかな花々に目を奪われがちだ、だが、かえるにとっちゃ花なんかどうでもいい。それより大事なのは葉っぱ。とにかく葉っぱ。葉っぱはかえるの生活全般を支える空間であり道具であり材料であり、さらにステータスでありファッションであり思想ですらある。「かえる世界」ではよく「葉っぱはたましいの器だ」なんて言われるねえ!
——と、というわけで、みなさんの知らない、かえると葉っぱの深くて奇妙なつき合いについて、今日は内江先生のお話を伺いたいと思います……。
(CM、入る)
——それでは、内江先生、お願いします。
——さて、みなさんのなかには、とくに「かえる世界」に親しんだことがないという方でも、子どものころにおじいちゃんやおばあちゃんから「ハッパガコ」なんて言葉を耳にしたことがあるのではないかな。あれこそ、まさに「かえる世界」の言葉なんだなあ、
(「えっ、ハッパガコってホントにあったの?」などと声が飛ぶ)
——あるんだな、これが。ハッパガコ。要するに「かえるの葉っぱ学」。つまりハッパ64だ。古来より「かえる世界」じゃ、葉っぱに関して64の分野に細目化された精緻かつ大胆な研究がたゆまず続けられてきた。その64にわたる研究分野の細目をざっと眺めただけで、どれだけかえるらが葉っぱに情熱を注いできたかは一目瞭然!
——まさに、かえると葉っぱは切っても切れない関係なんですね。
——ハッパガコは単なる学問じゃない。いわば「かえる世界」における生活と生命のための総合データベースだ。かえるらは日々の暮らしのなか、自らに与えられたスペースとステータスで、それぞれ葉っぱを読み、葉っぱを考え、葉っぱと対話して生きてんだ。そして、そこから喜びや癒しや深い叡智を汲みあげてんだ、ケロ!
(思わず漏れたケロ語に、スタジオ、ざわつく)
——あ、あの……、
——おっと失礼、思わず留学時代の癖が出てしまった。あははは。ともかく、葉っぱを見極めるかえるの目はすばらしいの一言だ! 人間の植物学者なんか目じゃない。ハッパガコの専門かえるなら、樹木類で3万種、野草類で4万5千種、コケ・シダ類で5万種、キノコ類に至っては8万種という膨大な種類の葉っぱをその形状、色つや、厚さ、堅さ、味や匂いからすべて瞬時に見分ける。いや、一般のかえるだって、その半分の数を見分ける。それに天候、季節あるいは病気なんかによる変化、亜種や変種の違いも完璧にわかるし、さらには、その用途や効能を正確に把握して、あますところなく使用することができんだぞ、どうだゲコ!
(スタジオ、さらにざわつく。「ケロ語だ!」という声が囁かれる)
——生きるか死ぬか、生活がかかれば、それくらいの知識はあたりまえだと思うかもしれない、けれどもどっこい、驚くべきことに、かえるの知識はまったく実用主義じゃねえんだ。ただもう純粋な知識欲から求めてるとしか思えねえんだ。それが証拠に、なんの役に立つのかわからんような葉っぱでも、かえるらはすべて同じように丁寧に分類整理し熟知してる。それはもうなにより、三度の飯より葉っぱが好きで好きでしようがねえ、葉っぱのこととなると、もう子どもから年寄りまでだれも黙っちゃいられねえってことなのさ。わかるだケロ?
——あ、は、はい……、ですが、かえるの子どもというと、おたまじゃ……
——「あすこの水溜まりの上のさツヤツヤしてていい塩梅だケロー?」とか、「この葉のカーブのグッとくるぜゲロ!」とか、「こっちのとんがり具合ったらもうドキドキよケロン!」とか。もうだれもかれも喋り出すときりがねえんだ、ケロケロケーロ! ケロケロケーロ!
(スタジオの奥から騒然とした物音が聞こえる)
——そんで、たいていはみんな自分の好みの葉っぱを一つ、二つチェックしててよ、仕事帰りとか、風呂から上がった後とかに必ずその葉の上で小一時間ほど、ポカンと口を開けてくつろいでんだ。その好みもいろいろでさ、テカリ具合やヌメリ具合にこだわる奴がいるかと思えば、日当り具合や傾き加減なんかを気にするのもいるんだ。もちろん、ほかにも、のど自慢のかえるならより響きのええ葉っぱを選ぶし、脚力に自信のあるのはやっぱ弾力性にこだわるしねえ。それに流行てのもある、「今年はフリルの多い葉っぱが、かわいいわ、ケロヨン!」とか「(枯れて)色のくすんだのがクールだぜ、ゲコ!」とか、もう千差万別で、なんとも面白れえのさ、ゲコゲーコ!
(と、ここで無理矢理、CM、入る。CM、終わると、スタジオは誰もいないような静寂。ナレーションのような内江博士の声だけが響く)
——あの日、私は「かえる世界」の暗い路地裏をひとり淋しく歩いていた。私は「かえる世界」随一というケロイチ大学への招待留学生であり、その日は研究発表を翌日にひかえ、準備のためにいつもより夜遅くなってから大学を出たのだった。雨はもうあがっていたが、晴れよりも雨を歓迎する「かえる世界」だ、いつまでもピチャピチャと耳の後ろで水音が鳴っていた気がする。いつもの角を曲がろうとしたとき、ふと道の反対側に、親子のような影がうずくまっているのが見えた。とっさにそのまま通りすぎようと思ったが、「痛いケロ、痛いケロ」という声が聞こえてしまい、私はその影へ、覚えたてのケロ語で「だいじょうぶでケロ?」などと話しかけてしまった。とたんに後頭部から一気に持っていかれてしまったんだ。「かえる世界」でいういわゆる「引きずり込み」という奴さ。いまでこそ私はそれへの対処法を知っているが、そのときは、なにしろ初体験だ、気がつくと私はその親子の住処に引きずり込まれていた。そこはどことは知れぬ、じめじめと暗い草むらのなかで、私が見た母と息子のほかに、父親と下の息子とおじいちゃんという五人の家族がいたのだが、彼らは本当に変わったかえるらだった。血筋からなのか、毒のあるウラシマソウという草の葉にしじゅう身を擦り寄せては、「痛いケロ、痛いケロ」とつぶやきながら気持ちよさそうにしているのだ。ウラシマソウはちょうど馬蹄のような形の茎に笹のような葉が次々と出ていって、団扇のような姿になる草だ。その笹のような葉のひとつひとつに彼ら親子らはくるまって、その毒に「痛いケロ、痛いケロ」とつぶやきながら気持ちよさそうにしていたのだ。そして、ぜひおまえもやってみろと私に勧めるのだ。私は叫んで抵抗したが、その甲斐もなく、やがてはウラシマソウの毒に全身蝕まれ、ついにはその毒なしには物足りないようになってしまったのだ。通常は、こうした毒への特別な嗜好は南米のかえる族に限られ、この国のかえるらに見られるはずものではなかったし、またその家族に南米出身の親戚はいないとのことだったけれども……
(CM、入る)
——また、それから数日後のこと、よく晴れた夏の午後だった。こんな陽射しの強い日は、かえるらはみな、草葉の陰でじっと身をひそめているんだろうとばかり思っていた。ところが、川べりの芝生に寝転んでた私の目の前に現れた、奇抜な配色のカップルのかえるは、テカテカに干からびた体をもろともせずに、男女のユニゾンで「行きましょうケーロ! ぜひ、行きましょうケーロ!」と鳴くのだ。私は、なにがなにやらわからぬまま、結局はまた例の「引きずり込み」で連れてかれてしまったのだった。まったく、かえるらのよそ者を招待したがる性向には良し悪しがある。歓迎する気持ちはとてもうれしいが、生物学的規範を超えて、種を同化させてしまうような、いわゆる「マジック」の乱用はいかがなものかと、これだけ「かえる世界」に慣れ親しんだ私ですら思ってしまうのだよ。そのカップルの特異な嗜好は、ナルコユリという細長いピーナッツのような緑色の花房へ、ポカンと口を開けてじっとぶら下がっているというものだった。それは、まるで70年代の実存的ヒッピーのように、これぞと信じたピュアなものに一心にすがっている姿で、それを見ている私まで、われ知らず、切なくなって、心もとなくなって、こころがざわざわするのだった。そして、そんなヒッピーカップルに促され、私もナルコユリにぶら下がってみると、いつしか、遠く水平線の彼方からやってくる、適度な自己批判と自己満足の波に交互に洗われているうちに、気がつくと指のあいだに膜が生え、吸盤ができ、みるみる体が「かえる化」していくではないか。ああ、私は泣いた、ゲロゲロ、ゲロゲロ。それ以外にどう泣けばよかったのか、ゲロゲロ、ゲロゲロ、ゲロゲロ、ゲロゲロ……

2011年3月18日金曜日

印象派 〜早春スケッチ〜

2011年3月15日 曇りのち雨

 涙が流れてきそうな冷たい空だった。
 彼女はもうフランスへ帰ってしまったし、僕は朝からひとり毛布にくるまって、空からいま通常の30倍を超える値の放射性物質が舞い降りてきているというニュースを聞いていた。「ただちに人体に影響を与える濃度ではない」という。だが世界はもう目に見えないところで決定的に壊れはじめているのではないか。見えないもののおそろしさに僕は慄然とし、さらにひとりぼっちになった。
 それでも、それは今日東京でまだ生きている僕らへ、被災地から届いた物理的「現実」なのだ。ここで逃げたらこの先もずっと逃げるだろう。
 ボクはテレビを消してネットを切ると、厚手の靴下にトレッキングシューズ、毛糸帽を目深にかぶってマスクをして部屋を飛び出す。長いこと、身も心もすくめて情報に身を晒していたせいで、腰から首にかけて筋肉が引き攣っているようだった。
 ペダルを強く踏む。主人のいなくなった桃園が見える。いつのまに咲いたのか、濃いピンクの点綴がぽつぽつと灰色の空に滲んでいた。まっすぐに伸びた枝も暖かみのあるオレンジ色だ。いつのまに、春は近づいていた。
 近くの畑にはペンペン草がもう生えて、その隣には名前の知らない紫色の花。向こうには、山茱萸やミモザの畑が黄色い炎となって燃え立つよう。同じ黄色でも、山茱萸は垂直に伸びた小豆色の枝に濃い黄色が一粒一粒灯るようで、ミモザの花はライム色の小葉に守られて、ひとかたまりに圧縮されてはじける炭酸飲料レモンイエローだ。枯れたミモザの葉や枝がやさしいサーモンピンクなのも初めて知った。よく見ると、畑の土までぼんやり暖色を帯びている。
 またペダルを踏む。この辺りで唯一武蔵野の自然が残っている雑木林に入る。木々の枝はまだ黒く裸のままだが、落ち葉のあいだから伸びた草の色はやはり暖かい。そのなかをついばむものを探して、ツグミたちがヒヨヒヨ歩いている。僕も自転車を降りて歩いていく。黒々とした林の尽きるところで、大きな白梅の木がその存在ぜんたいを煙るような薄桃色に発光させていた。
 近寄って見ると、花弁の白と萼の赤がなんとも潔く、中心の蕊の黄色は星の形だ。まるで小さな花火のようだ。どれもこれも冷たい空気のなかに生まれたばかり、みずみずしくふるえている。太い幹からひょいと伸びた若木にポッポッと並んでいるのも、精霊のつくり物のようでいとけなく可愛らしい。
 離れ際なんども振り返り、白い空、黒い林を背景に、大きな薄桃色の火炎が透明に燃え上がるのを見る。木全体が凛とみなぎっている気配だった。世界は生きている。
 さあ、雨が来る前に街まで辿り着かなくては。僕はさらに強くペダルを踏んで、坂を上がって行った。
 
2011年3月18日 快晴

 午後2時46分。黙祷。目を閉じると、あのめまいのような揺れが体のなかで続いてるのを感じる。ちょうど一週間分の記憶。

2011年3月19日 快晴

 空は晴れ、世界にはまんべんなくあたたかい陽射し。たまさかの僥倖。
 本日東京の放射線量は0.047マイクロシーベルト毎時。平常よりはまだ多いが、国際原子力機関が「都内に健康上の危険はない」と発表したせいか、テレビも平常通り平凡になったし、みんな街に出てにぎわうべきところはにぎわっているようだ。しかし被災地の状況はいまだ全体が見えず。いまも救援がないままに取り残されている人たちが海岸部に点在している。
 僕はまたひとり。ペダルを踏む力に汗ばんで、ダウンジャケットを脱いで自転車のカゴに突っ込んだ。見上げると、四日前にはまだ固かった白木蓮の蕾がふくらみ始め、寒桜の葉もやわらかく空に伸びていた。
 図書館に寄り、もはや僕のなかで古びた本を返し、駅前のデパートでまたいつか会えるときのために彼女へのプレゼント(白木蓮色の下着だ)を購うと、まっすぐ南下して多摩川の川辺りに出た。
 おぼろげな春めいた空気のなか、キャッチボールをする親子やサッカーチームの練習風景はいつも通りの河岸の景色だ。頭上に広がる大空は、霞みがかった空色から柔らかな桃色へ、たしかにうつろう春の夕暮れの空だ。あと十数分もすれば陽は落ちるだろう。
 岸辺近くに大きな柳の木が一本。空に向かって萌える新芽をライトグリーンに輝かせ、無数の椋鳥たちの棲家となっていた。なにを合図にしているのか、いっせいに黒豆のような椋鳥の影が何百と大気を揺さぶり飛び立つ風景に、こちらの心まで乱された。
 鉄橋の上を列車が走って行った。振り返ると、かすんだ西の空を、陽はいままさに沈み消えようとしていた。
 遠く多摩丘陵の稜線に欠けてゆく、光の真円。じわじわと地平の底へ向かって小さくなっていく。現実には、太陽が沈んでいくのではない。動いているのは自転している地球のほうで、太陽が沈んでいくように見えるのは、地球上からの視点が被る「錯覚」にすぎない、と科学は言う。けれど「現実には」というその「現実」とはどんな「現実」なのか。地球上からの視点もまた一つの視点ではないか、と僕は思う。
——目に見えるものを信じるか、見えないものを信じるか?
 人類は、これまで徹底した実証主義によって科学的真理を積み上げてきた。だが一般人にとって、その真理が日常経験と異なる時あるいは目に見えない時、その根拠は、「科学(あるいは教科書)がそう言ってるからそうなんだ」と信じる以外にない。地球が太陽のまわりを回っている風景を見たものはいないし、またインフルエンザのウィールスが体のなかで暴れている姿をじかに見た者もいない。われわれはただ、科学(あるいは教科書またはニュース)がそういうからそうなんだと「信じてきた(自分では実証しようとせず)」のではないか。
 しかし、なにをどう信じるかは個々人の生存能力や覚悟にかかわっている。いまこの上空をどれだけの放射線が飛んでいるか、どれだけの放射線を体内に蓄積すると有害となるのか、それらが目に見えない以上、われわれはまず科学的真理≒情報を「信じる」よりほかない、にもかかわらず、その情報をどれだけ「信じて」、そこからどのようなアクションを起こすかはまったく個々人にかかっているのだ。
 いま西の空で、命尽きるように地平の底へ沈んでいった太陽は、僕の目には沈んでいったとしか見えなかった。
 沈んでしまうと空はさらに激しく燃え出した。それは、日没点を中心に黄色から濃いオレンジ色へグラデーションするラジエーターだった。自然界の放射性物質だった。ああ、そうかと僕は思う。言葉は比喩だ。言葉のなかで陽は沈むのだ。没した者の悲痛の叫び。爆発的なメッセージ。まるで革命家の血のように、詩人の涙のように、辿り着かない永遠に向けて、空は最期の光を放っている。
 その外側からははやくも藍色の闇が滲み寄ってきて、夜の藍と日の名残りのオレンジとが重なり合っている弛緩領域は不思議な飴色に輝いていた。
 僕は自転車を降り、流れる川の水際まで、枯れ草色の葦の茂みをかきわけていった。水際は小さな崖のようになっていたが、釣り人がつくった窪みまで降りると、そこは足元まで水に触れられるほどの低さだった。そして波打つ水面には、あの上空での色彩のせめぎ合いがそのまま、まるで鏡の向こうの世界のように反映し揺らめいて、阿呆みたいに立ち尽くす僕の濡れた足元にまでしたたかに届いているのだった。
 そのとき、葦の茂みの向こうの闇から声がした。姿の見えぬその声は、ひそひそと軽やかで、よく聞くと女子学生ふたりが学校での恋話を熱心に相談し合っているのだった。
 でねえ……そうなんだけど……だってえ……でしょ……でも……ああどうしよ……
——ああ、彼女らには、見えないものへの恐怖より、見えないものへのときめきなのだ!
 陽はまた昇る、と思った。
 あの断末魔のようなオレンジ色の死は、再びまぶしい産声となってかならず東の空に帰ってくる。それは願いでも希望でもなく、生の事実なのだと。
 ハンドルを握って堤防の上まで一気に駆け上がる。空はますます墨を流したように暮れていったが、そのまだらのなかをまだ多くの市民が当たり前のようにランニングしたり散歩したりしていた。

2011年2月26日土曜日

迷宮へ

 はじめて行った外国の街は小雪降るワルシャワだった。一九九二年のことだ。ソ連が崩壊したばかりで、つい最近まで共産主義だった街並みには「商業広告」というものが一切なく、暗褐色の石造の建造物が海の底のように並んでいた。資本主義バリバリの国から来た自分に、それはなんだか心許ない風景だったが、すっきりと美しくもあった。
 はじめての海外で一人旅で日本人はまったく見かけない街で緊張していた。普段生きている場所とは文化も言葉も風景もまったくちがう世界にひとり放り出されたのだ。魂はゼリーのように震え、些細なできごとにも冷や水を浴びせられたように動揺したり、戸惑ったり、感激したりした。
 それでも、ただ観光するだけじゃつまらない、できるだけ劇場を見て回ろう、できればなにか公演を見てやろうという魂胆があった。ホテルのベッドに買ったばかりのワルシャワの街路図を広げると、劇場を示す仮面マークがざっと数えても二十から三十、かなりの数記されているではないか。まずは街の中心からひとつひとつ回ってみた。だがシーズンオフなのか、公演をやっているところがなかなかない。ふと見つけた街の塀のポスターの、ポーランド語の日付と時間は自分にもわかった。今夜公演があるらしい。だが場所は地図より外側の郊外のよう。通りすがりの優しそうなオバさんを思い切って呼び止め、書かれた住所が自分の持ってる街路図のどのあたりなのか尋ねてみたが、よくわからないという。途方に暮れた僕の表情がよほど切なかったのか、オバさん、塀の向こうの工事現場のオジさんたちに大声で尋ね出した。それでも拉致が明かないと見るや、今度は道行く人を次々と呼び止めた。ついには、足を止めた人びとみなで「この住所はここだ」「いやいやこっちだ」と議論を始めたのだ。なんて素朴な良い人たちだろう! 感動し、勇気をもらった勢いで郊外へ出ることになったのだった。
 よくわからない場所でタクシーを降ろされ、目の前は殺風景な住宅街の一直線の道だった。右側の高い塀の向こうは墓地で、左側に並ぶ無機質なコンクリートのアパート棟には人影がまったくない。上空からは灰色の風が吹きつけてくる。「本当にこの先に劇場なんかあるのだろうか?」絶望しそうな気持ちを抑え、とにかくまっすぐなその道を、どこまでもどこまでも歩き続けたのだった……。
 帰国してから数年のあいだ、夢のなかでワルシャワの街を彷徨うことがよくあった。それはたいてい現実世界で行き詰まったものを抱えて迷っているときだった。夢のなかのワルシャワは、自分の記憶に加え、絵葉書で見た積み木のような街の航空写真や、アンジェイ・ワイダやキエシロフスキーあるいはギリシャのアンゲロプロスの映像が綯い交ぜになった陰画のような世界で、埃っぽい石造りの建造物に、オレンジ色の街灯、路面の水溜まりは石油のように黒く光り、行き過ぎる人もみな黒いコートに身を包んでいる、そんな冷たい影絵のような場所をどこまでも彷徨うのだった。なにを求めて彷徨うのか。なにかを求めてはいるのだが、それはわからず、求める場所に行きつく気配もない。けれど焦りもなくて、ぼんやりとぐるぐる同じところを行ったり来たりした。そして目が覚めると、行き詰まった問題に新たな気持ちで向かい合おうという力が湧いているのだった。いつのまにかワルシャワは、疲れた心が彷徨するための迷宮都市となっていたのだ。

 それから三年後のことだった。ずるずる引っ張った挙げ句にろくに通っていなかった大学院を中退し、ついで自前の演劇グループを解散せざるをえない状況に陥った。中退は自分の責任として、グループの解散には人間関係の崩壊も絡んで少なからずショックがあった。そのせいか、なにをする気力もなくなり自室に引きこもってしまった。バイトもやめ、ちょっと郊外の、呼ばなければ友だちも来ない部屋で、誰とも会わず毎日一人でぐだぐだしていた。夜は本を読んだりテレビを見たりして、明け方眠っては太陽が空にあるあいだはずっと寝て、夜になるとまたもぞもぞ息をしたりしていた。
 仲間を切り捨てたわけではなかったが、同じ目標を持って関わることはもう無理だと思っていた。というのは、自分としてはギリギリまで関係を支えようと耐えたし、ダメだと思って手を離したときは本当にダメだったと思っていたからだ。みんなからすれば、僕に見捨てられたと思ったかもしれなかったが、しかし、こちらとしては裏切られたのは自分のほうだと卑屈になっていた。だから「人生いざとなると誰も助けてはくれないのだな」などと嘘ぶいて、繭のなかへと閉じていったのだ。
 ほんとうに孤立してみると、やるべきこともなく、自分が何者なのかもわからない時間は、外国の見知らぬ街に放り出されたときとおなじ、心の迷宮だった。
 しかし驚いたのは、そんな無為な生活のなかで、いつのまにか夜型生活が普通の昼型生活になっていったことだった。見知らぬ街を探検する代わりに、毎日明るい太陽の光のなか寝そべって、いろんな人の日記や伝記、書簡を読みふけった。とくに小津安二郎の日記とサティの書簡集を覚えている。どちらもほとんどドラマ性のない、何を食べたとか、何を送ってくれとかいう事実だけを淡々と記したものだったが、わくわくしながら読み、さらに読みながら眠り、眠りながらも読んだことを覚えている。
 そしてふいに、ある日、迷宮の出口が見えた。向かうべき方向が見えたのだった。決心した。そうだ、いまからさき一年間とにかくがんばって働いて、お金を貯めて、イギリスへ行こう。イギリスへ行って、演劇の勉強をしてこよう、今しかできないことをしよう。こつ然と前向きなエネルギーがふつふつ湧いてきたのだった。

 人は帰るために旅をする、と言ったのは古代中国の詩人だったか。その言葉に倣えば、人は抜け出すために迷路へと入っていくのだと思う。ワルシャワのときも引きこもりのときも、自然な流れのなかで、半ば意識的に半ば意識しないで迷宮へと入っていき、やがて偶然と必然のはざまで出口を見い出したのだった。
 迷うときは大いに迷うべきなのではないか。方向感覚も、自分の立っているポジションも見失えばいい。そのときこそ、理性も欲望も存在もめまいを起こしたように機能不全になって、普段は閉ざされた自分の心の深いところへ降りてゆくことができるのだろう。やがて時が満ちれば、そこからふたたび浮き上がって、新しい力を手に入れることができるのだから——。

2011年2月5日土曜日

雪よ、林檎の香のごとくふれ



 父が死んでから、ボクは取り憑かれたように戦前・戦後のふるい日本映画を見つづけた日々があった。
 父が少年としてまた青年として生きた時代がどのようなものだったのか、この眼でじかに見てみたいという思いがあった。と同時に、現在行き詰まった自分の人生にとってもそのような歴史的な探索が必要だと感じていた。
 だから戦前の日本といえば、たとえば小津安二郎の「生まれてはみたけれど」や溝口健二の「浪華悲歌」などが浮かぶし、敗戦・戦後直後の日本といえば、成瀬巳喜男の「浮雲」や黒澤明の「わが青春に悔いなし」などのいろんな場面が頭をよぎって、それらは、戦争が迫っているからといってただ閉塞的で暗いわけでも、物がなくて貧しいからといって陰惨で汚いだけでもない、それまで知らなかった、まったくちがった時代のイメージを与えてくれるのだ。
 一方には、あまりに理不尽でどうにもならない現実がありながら、それでも人びとは人間らしく活き活きと、たくましく生きていたのにちがいないのだ。



 その年の正月が終わり一月も下旬になったころ、脳梗塞のせいかアルツハイマーのせいか以前より急激に認知症が進んでいた父が、とつじょ嚥下障害になり、なにも食べられず飲み込めずというので入院となって、結局その入院をさかいに二度と家へは戻れぬまま、院内感染で肺炎を併発し、意識もなく、帰らぬ人となってしまったのだからすべてはあっけなかった。正月に帰省したときはまだボクの顔を見ても自分の息子だと認知できていたことを思うとなんだか奇妙な感じだった。
 父が入院していた六か月のあいだ、ボクは東京から毎週あるいは隔週、週末の病院へ電車か高速バスで通った。そして、それが平日のあいだ終日ひとりで看病を続けていた母の、家へ帰っての家事と休息の時間となった。
 そこでボクは、静まりかえった夜の病室の、意識のない父のかたわらで、父が生きた戦前・戦後の日本へ思いをめぐらせたのだ。看護婦の用意してくれた簡易ベッドに寝そべって、田村隆一の書いた若き日の荒れ地の詩人たちの物語を読んだことを思い出す。
 迫りくる戦争と死の足音に脅かされながら、若き詩人たちが詩と芸術のなかに真実を見つけようと苦闘した、青春の日々。その葛藤の記録を、生のしめくくりにいる父の現在と過去、また不甲斐ない自分の今とに重ねつつ、ボクは黙って本のページをめくっていった。
 意識はないが、そのときはまだ人工呼吸器は必要なく、自前の肺から流れてくる父の寝息を聞きながら……。



 父が戦争へ行ったことがあるのは知っていたが、その話をじかに聞いたのは後にも先にも一度きりだった。
 それは、認知症によって父の記憶や認識が曖昧になり始める直前、まだ記憶も認識もしゃんとしていたある正月のこと、帰省していたボクと二人で、テレビを見ながら酒を飲んでいたとき、まったく唐突に、バチッと父はテレビを消した。子どものころ、そんなふうに突然テレビを消すと、決まって説教を始めたり、カミナリを落としたりするのが父のパターンだったから、ボクは一瞬、子どものころを思い出し、ビクッとなってしまった。
 しかし、しーんとした空気をやぶって父が話し始めたのは、意外にも少年時代に戦争へ行ったときの話だった。
 自分でも唐突なのは承知していたのだろう、
——お父さんは戦争に行ったけどな、それは北海道でなあ……。
 などと、前置きらしきものはありながら、しかしいったいなぜいまその話をするのか、ボクにはわからない。ただ、父のなかでは突然その回路がつながって、どうしてもいまそれをボクに話しておきたくなったことだけは察せられた。
 父が戦争へ行ったことがあるのは知っていた。そして計算すれば分かることだが、終戦のとき、父はまだ十五歳で中学生の年齢だった。これは父の死後人から聞いたことだったが、父は母子家庭のため、家の食い扶持を減らすために、またわずかな給料を家に入れるために志願して出征したというのだった。わずか十四か十五の少年のときに。
 しかし、そのときのボクはそんなことは知らず、父はただ血気盛んな軍国少年だったのだろうとばかり思いながら話を聞いていた。もちろんそれなりに軍国少年は軍国少年だったのだろうけれど。
——お父さんが配属されたのは、北海道の稚内でな、そのころはもう、ソ連の艦砲射撃が毎日パンパンパンパン、まあ怖かったわあ。
 ソ連が日本に侵攻してきたのはアメリカが原爆を落とした後だから、終戦も間近の八月の話だ。内地とはいっても外地も同然の北海道の北の端の稚内、いわば国境の最前線で、まだヒゲも生えそろわない少年の父にとって毎日続く本気の艦砲射撃はさぞや恐ろしかったろう。ソ連軍がいつ上陸してくるか気が気でなかったろうと思う。そののちに終戦があるなどとはつゆ知らず、周囲のかけ声はみないっせいに一億総玉砕なのだから。
——パンパンパンって鳴ってなあ。
 という乾いた声音が妙にリアルで、話しているそのときにも父の耳にはその音がまだ響いているかのようだった。
——ある日な、大佐(大将だったかな?)殿に呼ばれてな。大佐(あるいは大将)っていえば、もう上の上の上官だぞ。なにかと思って行ってみたら、風呂に入るから背中を流せと言うんだ。お父さんは嬉しくてな。誇らしい気持ちで大佐(あるいは大将)殿の背中を流したな。嬉しかったなあ、などと言う。
 そのあと、大佐(あるいは大将)からなにか褒美を賜ったらしいけど、なにをもらったんだったかは覚えていない。覚えているのは、そのときのボクには大佐だろうが大将だろうが、そういう戦前社会の軍隊式の上下関係など愚かしいとしか思えず、背中を流そうが褒美をもらおうが、そんなことのなにが嬉しいものか理解もしたくないということだった。
——けどな、野外のバラックには、連れて来られたチョンとかチュンとかがいっぱい働かされてるわけだ。家畜みたいに。まあ、汚くて汚くて……。
 チョンというのは朝鮮人で、チュンは中国人のことだ。子どものころも、父はよくテレビで海外ニュースなどを見ながら、「チョンがチョビチョビすんなー」とか「チュンがなにをー」とか叫んでいたのを思い出す(「チョビチョビすんなー」は「調子づくな」という山梨方言)。そういうとき、ボクはいつも戦後生まれのリベラリズムで、父の差別感覚を軽蔑していた。
 ただ、
——でも、あいつらとよく○○もしたよ。
 と告白するように言う。○○がなんだったかは忘れてしまったけど、悪いことではなかったと思う。いっしょに汚い飯を喰ったとか、遊んだとか、そういうようなことだ。なにしろ父は下っ端も下っ端の中学生だったのだから。

 まあだいたい、父はそんなようなことを一人でしゃべると、満足したのか、もうなにも出てこないのか黙ってしまった。いや、よく見たら寝てしまっていた。
 ボクには艦砲射撃も軍隊も強制労働もよくわからず、もっと聞きたいという気持ちはありながら、それを聞き出すうまい質問もできず、結局なんで父がそんな話をしたのかさえ聞きそびれてしまった。
 しかし、いま思うとすべては戦争だったのだ。なにが起こるかわからなかったのだ。そのままソ連軍が上陸していたら、日本はドイツや朝鮮のように分断されていたかもしれず、父もまた戦死していたか、捕虜になってシベリアだったか、いずれにしてもボクはこの世に生まれてはいなかったろう。
 少年の父がそのとき、その上官の背中を流しながら感涙した背景には、みなが明日をも知れぬ状況があったからだとずっと後になって気づいた。それと、その稚内での戦争体験は、つまり父の少年時代は、何十年という時を経て、いつしか父のなかで「結晶化」していたのだということにも……。



 苦しい苦しい人工呼吸器をやっと外してもらい、父は息を引き取った。それから、遺体となってやっと自宅に帰ってきて、ゆっくり一晩を過ごし、棺に入って、さあ永遠に家を出ていくというとき、その胸元に添えられたのは、出征してゆく少年兵へ向け寄せ書きされた日章旗だった。つまり、父の「少年時代の結晶」だった——。
 それを見ながら、ボクは、父の人生にとって戦後何十年はなんだったのだろうかと、さびしい思いで問いかけていた。
 戦後、一代で築いた会社を、いや築いたというより続けた会社を、子どもたちの誰もが継がないとみるや、父はあっさりとお終いにした。あとは悠々自適なマンション経営生活。それから引退生活の暇のなかで、父はまずリビングの壁にその「少年時代の結晶」を飾ると、やがて持病の糖尿病が悪化し、認知症がはじまって行った。
 そのときすでに、父にとって、戦後のあくせく働いたことのすべては過ぎ去った出来事となっていたのか?
 けっきょく最期の彼に残ったのは、その、純然たる日本の少年兵として生死の境へすすみ征く、ホリウチヤスゾウ君へ向け寄せ書きされた日章旗だけだったのか?
 いずれにしても、あの日の大佐の背中を流した少年の感激と緊張と不安は結晶となって、死ぬまで父の心から消えなかったのだ。



 火葬場の空は晴れていた。煙突からは、父の体を焼いた煙がのろのろと昇っていた。
 待合室のベランダで煙草を吸っていると、母方の叔父が来て言った。
——お前のお父さんは、まあ、欲の深い人だったけど、警察に捕まるようなことはしなかった。悪いことはしなかったな。
 おいおい、オジさん、この状況でスゴいことを言うなあと思ったけど、僕は昔からこの叔父さんの正直なところが好きだったし、じじつそうだと思った。父は欲は深かったが、悪いことはしない人だった。いわゆる法的にはという意味で。さんざん母のことは悲しませたけれど……。
 でもまた、最後まで母方の親戚じゅうから心安く受け入れてもらえなかったのもほんとうだった。みんな父を怖がっていた。親戚だけではない、父の周りの人はだれもかれも、気性の荒々しかった父の内側に活き活きとした人間らしい面があろうとは思っていなかった。
 その日の火葬場の空はほんとうに晴れていた。あんまりにポッカリと晴れていて、みんなホッとしているようだった。もしも、ひどい天気だったら、機嫌の悪いときの父とつき合う息苦しさを思い出して、みんなきっと心落ちつかなかったにちがいない……。



 あんなにがんばった戦後は、父にとってなんだったのか、なんでもなかったのだろうか、という疑問がボクのなかに深く残った。
 ボクはボクで行き詰まりのなかにいたのだ。冷戦構造の崩壊から、日本では平成となりバブルがはじけ、やがてオウム事件、サカキバラ、そして9・11へと世界が押し流されてゆくなかで、自分の立ち位置が砂上の楼閣のようにさらさら流されてしまっていった。
 いつのまにか世論には、かなりの保守派の意見がまかり通るようになっていて、彼らの主張の多くは戦後のゆがんだ民主主義への批判だ。憲法への反論だ。しかし戦後の価値観のなかで育ったボクとしては、もちろんそういう退行的な論調に組みする意思はないし、浅薄な現実論に賛成はしないのだけれど、もしかしたらこの今の行き詰まりの原因は、戦後の民主社会の出発点にあったのではないか。敗戦、そして戦後という局面で、日本人が引き受けたことまた捨てたことは真実なんだったのか。そこにはなにか「ゆがみ」があったのではないかと思うようになったのだ。



 一つ確かなことがあった。それは、あの八月の、あの日の日本の空もおなじようにポッカリと晴れていたということだ。
 あの日、生きる心棒をなくして呆然としている人も、閉塞感から解放されて泣き出す人も、日本じゅうのみんなが、平等に、ポッカリと、晴れて「自由」という名の空の下にいたことだ。空腹感とともに。
 そのことがむしょうにボクの心を揺さぶるのだ。
 たとえば、吉田喜重氏の「秋津温泉」という映画。終戦の知らせを聞いたとたん、岡田茉莉子と長門裕之は石だらけの荒野を子どものように、石ころのように駆け出した! ローリング・ストーン!
 たとえば、田村隆一の詩のこんな一節。

世界の真昼
この痛ましい明るさのなかで人間と事物に関するあらゆる自明性にわれわれは傷つけられている!

 あの八月の真昼の明るさの下で世界は壊れ、それでみなが人間であり、まだ生きていて、これからも生きていくんだというあたりまえのことが露出したのだ。そのことにだれもが少なからず驚き、おののいたのだ。
 それからは、食べるものも着るものも何もなかったが、束縛するものもまたないなかで、ここから、これから、新しいことが始まる、新しいことができる、そんな自由な空気が満ちていたはずなのだ。
 そんな空気のなかから民主主義の理念が、憲法とともに、ボクら日本人のなかに根づいていった。
 それはたしかなことなのだ。



 だが、げんじつの眼に浮かぶ戦後は、泥色の人間世界。
 自由と混沌とが背中合わせになった世界だ。
 トタンのバラックでできた闇市を行き交う人々の群れ。大きな風呂敷包みを背負った人や、ゲートルを巻いた人。一攫千金を狙うギラギラした目つきや、ジープに乗ったアメリカ兵、派手なパンパンやモンペ姿の女たち、飢えた子どもやらがひっきりなしに通っていく。
 泥水のはねる道路。ションベン臭い裏路地。曇った空と、リンゴの唄——

赤いリンゴに唇よせて
黙って見ている青い空

 むき出しになったのは、人びとの自由の感覚だけではなかった。ポッカリとあいた心のすきまや空腹感から、動物的といってもいい、本能的な欲望の力も噴出し始めていたのだ。さあ、賽は投げられた。どっちに転ぶ? 自由と本能との裏腹の運命線。さまざまな夢と現実が錯綜しながらせめぎ合っていたのだ。
 そこへ、父は、戦争から生きて帰ってきた。価値観がなにもかも変わってしまった世界で傷つきながらも、やっと青春を、第二の人生を生き始めた、そのときの父が仰いだ空もやっぱりポッカリ晴れていたろうか? わからない……。わからないが、埋めようもない心のすきまと空腹感はあったろう。それを必死になって埋めるために、父はけんめいに走り出したのだろう、時代とともに……。


 
 父の四十九日の席で、何十年振りか、父の兄の奥さん、つまりボクにとっての伯母に会った。伯母はいまは大月市に暮らしているが、子どものころは近所に住んでいて、正月などによく泊まりがけで遊びに行ったものだ。その伯母から法事の席で、戦後すぐのまだ若く、遊びまくっていた父の話を聞いた。
 戦後十年くらいだろうか。焼け跡などはもうほとんどなく、まだ貧しかったが、みんないきいきと、またギラギラと生きていた時代。そのころ父の兄へ嫁いだ伯母は、小さな家で、父のことも含めホリウチ家ぜんたいの家事を引き受けていた。
 戦争から生きて帰ってきた父は、もはや軍国少年ではなく、始まったばかりの民主主義と競争社会のなかで血気盛んで、かなりのやんちゃだったようだ。夕方、仕事から帰って、伯母のつくった夕飯を喰うと、毎日のように夜の街へ飛び出していったという。背は低かったが(ちょうどボクくらい)、パワフルで積極的だった父はよくモテたらしい。たぶん、真っ赤なかわいい娘っ子たちを追っかけて、映画に行ったり、バイクで遠出をしたりもしたのだろう。
 極度に緊迫した時代から一転、自由と解放の時代へ。さらに野心と競争の時代へ。そのなかで、ハメを外して狂騒していた父の青春をボクは思う。一方では、自分で事業を興し商売を始めたりもするのだけれど、それも時代の興奮の力にちがいないと思いつつ。
 そしてボクの母と結婚し所帯を持ったのは、さらに四十歳のときだったのだ……。



 戦後十年、二十年……。皮をむいたリンゴが変色してゆくように、あっという間に自由の空気は別のなにかに変質していったのか。
 
空は
われわれの時代の漂流物でいっぱいだ
一羽の小鳥でさえ
暗黒の巣にかえってゆくためには
われわれのにがい心を通らねばならない

 物も迷いもなにもなかった終戦から十年。そのときにはもう田村隆一の心の空には、時代のにがい漂流物がいっぱい漂っていた。いったい、どこで、なにが、方向をあやまってしまったのか? ボクはそう問わずにいられない。
 なによりも物質中心の社会がある、いまも。経済開発の名のもとに戦後ずっと続いている、自然破壊、環境破壊、精神破壊。よい就職と給金をゴールと定めた教育制度と教育環境。患者の心身のバランスも生きる質も無視した無意味な延命医療。こんなものたちが、あの日、八月の晴れわたった空の下で、父たちの世代が夢見た新しい時代だったのか?
 資本主義、自由主義、民主主義……。戦後日本は、これら三つのお題目がからみ合ってできた大きな歯車だ。それが、ボクたちをずんずん、ずんずん突き動かしてきた。そして、これからも、さらに先へずんずん、ずんずん突き動かそうとしている。どこまでも! ずんずん! ずんずん! どうにも誰にも止められそうにない!
 ——なんて苦々しいんだろう!
 変革し修正するチャンスも機運もかつてはあったのに、すべて押しつぶされ、失われ、まるで「千と千尋の神隠し」に出てきた巨大な赤ん坊のように、思考は停止したまま体ばかりが巨大化してしまった、それが現代社会だ。いまのボクだ。あまりに巨大化したシステムのなかで、そのシステムそのものを相対化する視点が持てなくなっている。
 そう、戦後の「ゆがみ」はあった。それは、八月のあの日に社会は理性的に出発したにもかかわらず、いつのまにか経済発展を最優先するようになっていたことだ(経済発展とはつまり日常的には経済効率、巨視的には経済成長のことで、その効率や成長を優先するところに理性的な所行はない)。民主主義も自由主義もそれ自体は輝かしい。しかし、いつのまにか資本主義とその発展をバックアップするための理念的な道具に成り下がっている。「ゆがみ」は変革も修正もされることなく、数十年のあいだに坂をくだる雪玉のように膨れ上がって、どうしようもないほど巨大になってしまった……。
 そして混沌のなか、光は見えないなかで、ボクらのたましいは窒息しかけている……。
 


 四十九日の法事が終わった後、ホッとした母がボクら兄弟を集めて静かに話しはじめた。
——お母さんもはじめて知ったの。相続の手続きのためにお父さんの古い戸籍謄本を、本籍のある大阪から取り寄せて、それではじめて知って驚いてしまったの。
 いかにも戦前に書かれたらしい古くさい筆跡の謄本のコピーを、母は開いて見せた。
 そこから読み取れることは、父の父、つまり父方の祖父はもともと朝鮮人だったということだった。若いころに日本人の家へ養子に行ったので、祖母と知り合ったときには国籍はすでに日本人だったが、もともとの出自は朝鮮人、朝鮮の済州島の出身だった。
 つまり、父の血の半分は朝鮮人だったのである。「チョン」だの「チュン」だのと蔑むように叫んでいた、あの父が……。少年時代はバリバリの軍国主義だった、あの父が、である……。
 あまりの突然のことに、ボクら兄弟だれひとり言葉が出てこない。
——お父さん自身はこのことを知っていたのかね? そんな話、お母さん、一度も聞いたことがなかったよ。
 さらにその謄本から読み取れたことは、父の父と母つまり祖父と祖母は、大阪で出会って所帯を持ったがうまくいかなかったのか、祖母は二人の男の子を連れて実家、ホリウチ家のある山梨へ戻ってきたということだった。
 そのとき、父はまだ二、三歳。父親の顔も覚えていなかったろう。誰かから教えられなければ、ことの次第を理解することもできなかったろう。そして死ぬまでのあいだに誰がその事実を父に教えたろうか。
——でもね、むかし、自分の父親だという人のお葬式へ、お兄さんとふたりで千葉まで出かけたことがあったのよ。やっぱり知ってたのかしらねえ。
 その話は聞いたことがある。だとすれば、父はやはり知っていたのか。いや知っていたのだ。
 それでも、それをおくびにも出さなかった、妻にも話さなかったのは、日本人として、生きるか死ぬか、戦争へ向かったあの日の少年時代がずっと父のなかにあったからだ。また、戦後の貧窮と混乱を、百パーセントの日本人だと信じて歯を食いしばり生き抜いた、それが父の人生だったからだ。



 だけど……とボクは考える、その人生は「矛盾」から逃げた人生でもあった、と。
 戦前から戦後へ。時代の変化は、父に大きな「矛盾」をも突きつけたのだ。少年時代の憧れとそれを全面否定された後の青春の奮闘にしても、朝鮮人の血が流れていることを知りつつ全き日本人として生き抜こうとしたことにしても、それらは父のなかの「矛盾」であり、父はそれらを解消しようとはせず、心の奥に押しやって、まるで逃げるように走り続けた。
 ボクは考えるのだ、それは、その「矛盾」は、そのまま日本の戦後社会の姿だったのではないか——。
 つまり、戦前から戦後への変化のなかで、社会の深層にも、父と同じような「矛盾」が残ったのではないかと。あるいは「軋轢」や「ひずみ」といってもいい、いずれ解決しなくては心が病んでしまいかねない不整合なものだ。それを、戦後数十年のあいだ、だれもが存在しないかのように無視し、忘れ去ろうとしたけれど、じつはいまも人々の心の奥に、社会の深層に、それは歴然と存在しているのではないか。そうした心の呵責が、経済重視、物質重視の社会へと走らせているのではないか。
 そして、記憶の防波堤だった父らの世代が去っていくいま、忘れ去られたはずの「矛盾」が蘇り、より大きな「混沌」となってボクらに襲いかかってきているのに、そんなものが存在しているとは戦後生まれのボクらには想像だにできず、どう対処すればよいのやら、ただ慌てふためいているばかり……。というのが、社会の行き詰まり感やボクらが魂を窒息させていることの実相なのではないのか?
 あらためてもっともっと真っ正面から、ボクらは戦前の日本と向き合う必要があるのではないか?

10
 
 父が、母と結婚して所帯を持ち、守るべきもの、育むべきものを身に引き受けた年齢を、ボクは過ぎてしまった。
 なのに夢見たものは手に入れられず、どこにも行き着けないまま、さらに父を失い、愛した犬を失い、さまざまなものを失って——そのうちのいくつかは二度と取り戻せない。その事実だけで心が萎みそうになって……いまやもう海図をなくしたオンボロ幽霊船の気分だ。目的地のイメージもぼんやりと、光もなく、逃げ場もなく、息苦しい時代を漂っている……。
 しかし——、それでもオンボロ船は航海を止めて陸に上がろうとは思っていないらしい。陸に上がるくらいなら、野垂れ死んでもいい、消息不明になってもかまわない、このまま漂い続けてやろうと思っているのだ!

——ごめん、親父。

 思い出すのは——徹夜の看病明け、まだ寝息を立てている父のそばを離れ、朝の空気を吸いに病院の外へ出て、ふうっと息を吐いて空を見上げると、山梨には珍しい雪がちらほら舞ってきたことだ。降るのでなく舞っているだけの、その白く小さきモノたちもまたずっと遠くの空の彼方からやってきたのだなあと思ったことだ——
 それから、食べ物をうまくノドに通すことができない父は、点滴や胃ろうで栄養を取っていたけれど、動くことも外へ出ることもできず、窓から外を眺めることもできない。なにも楽しみのない生活のなかで、母がせめて味わうことくらいさせてやりたいと、アイスクリームやらゼリーやらいろんな流動食品を試したこと。擦ったリンゴの香りがふわっと病室に広がったことだ——

 きみかえす 朝の舗石さくさくと 雪よ林檎の香のごとくふれ
(北原白秋「桐の花」より)

2011年1月14日金曜日

リズム!リズム!リズム!

 坂本龍一教授の「スコラ/音楽の学校」を見た。子どもたちとリズムを発見するワークショップで、ああ、そうか!と合点したのは——リズムって形なんだってことだった。
  坂本さんは、子どもたちを円形に歩かせたり、竹筒を叩かせたり、これはどう? リズムかな? じゃあこれは? って一歩一歩やさしく導いていくのだが、子どもたちの反応の鋭いこと! 強弱も長短もないただの泊打ちには、「なんかつまらない!」「リズムじゃなくてただの拍子だ!」とか言ったり、一拍目にアクセントをつけて打つと、「うん、リズムっぽい!」「乗れる!」と来たり。
 リズムは乗れるか乗れないか。そして、強弱も長短もないただの平板な音のくり返しに乗れないのは、そこに味わうべき形がないからだということを子どもたちから教わったのだった。

 リズムは形なのだ。つまり形式だ。しかも内容より本質的な形式だ。
 リズムの良し悪しには、どんな楽器で演奏されるかは問われない。ノリのいいリズムがあって、それがカスタネットで演奏されるか、タンバリンであるいはトライアングルで演奏されるかは、基本的に関係ない。
 その現象を具現化するのに、素材より、形式のほうが本質的だという現象、それがリズムなのだ。
 と思ったら、つねづね本質論の演出家を標榜しているボクとして、こういう類いの本質つまり形式が本質であるようなアリストテレス的本質でもって芝居を創ったことはあまりなかったなと、そんな心境へ至ったのだった。



  イデア、という至高の理念世界こそが実相であると考えたプラトンとは反対に、アリストテレスは、個々の具体的な個物こそが実在するものだという、いわばボクらの日常感覚とわりに近いところで世界を見ていた。イデアがあるとしても、どこか別の世界にじゃなく、個物の中に内在しているんだと。
 そんなアリストテレスの哲学の核心が、形相と質料という概念。質料形相論になる(ちなみにこの場合、形相は「ぎょうそう」ではなく「けいそう」と読む)。

「植物、動物、家、彫刻が種子、木材、石などからできるのを見るがよい。それゆえ、できあがったものはつねに質料と形相との合成物であり、分析的思考は質料的および形相的原因という2つの原理をむき出しにし、質料および形相という概念を純粋にとり出すことができる」(アリストテレス『自然学』1巻7章より)

 つまり建築物に例えると、設計図が形相で、材料となる木や石やコンクリートが質料。人間に例えると、魂が形相で、肉体が質料となる。つまり形相のほうが本質であり、プラトンのイデアに当たるのだが、その本質は、質量(材料)と結びついた形態でしか現実には存在しないというところがアリストテレスのポイントだ。
 究極の理想世界、イデア界などないというのだ。

 リズムは形だ、そう思ったとき、ボクはすぐこのアリストテレスの哲学を思い出した。
 リズムとは、まさに形であり形式であり形相で、同時に本質でもあるが、音や形となって現実世界に飛び出すよりほか存在しようのない、そういう本質だ。
 また、反対にこうも言えよう。アリストテレスの形相という物事の本質は、まさにリズムではないか。命あるものもないものも、自然は形として、本質を受け渡しつつ受け取りつつ、模倣し反復し周期するリズムだと。

 提言:リズムは、形であり、自然の本質である。また自然の本質は、形であり、リズムである。

 これは、これまでボクがイメージしてきた物事の本質とはがらりと趣のちがうものだ。あまりに乾いた、現世的な提言だぞ。
 してみると、これまでの舞台表現で、ボクはむしろプラトンのように理念的な本質(イデア)がそのままに実在する世界を、どこかで夢見てきたのかもしれないな。



 では、舞台表現にとっての本質とはなにか?
 それは、表現のよりどころとなる「基点」であり、かつまた表現の「主題」だろう。
 あるいは、亜流哲学学徒であり演出家であるボクにとっては、舞台と世界の接点、その対応関係を保証するリアリティでもある。
 ボクがこれまで求めてきた本質は、おもに再現的で論理的なものだ。それは言語の持つ再現性であり論理性であり、台本の読解から得られるもので、とにかく台本に書かれた台詞とト書きを読んで読んで読み尽くすことから、ボクはその芝居の本質を、舞台と世界の接点を汲み取ろうとしてきた。
 そして、こうした論理をつむぐため、その背景に、ボクはプラトン的な理想(イデア)世界を前提していたのかもしれない。
 だがしかし、鏡の向こう側にもうひとつ別の本質があるとしたら?
 それがリズム。形という本質。アリストテレス的な形相的本質で、それを舞台表現の座標軸からいえば、言語のもつ再現的で論理的な本質とは対して、身体がもたらす直接的で感覚的な本質ということになるか(たとえばダンスで真っ先に採用されるような)。
 そこでは、イデアのような理念は絶対に必要なわけではない。形式のリアリティ=感触さえあればまずOKだ。

——正シイナンテコトガ、ナンニナルノサ!

 だが、そんな直接的で感覚的な本質を中心に、演劇を構築することははたして可能なのだろうか?
 言葉や意味よりも、リズムやグルーブ感でもって場面を作ることは可能なのだろうか?
 おそらくは可能だろう、だが、じつを申せば、ボクにはその実際的な方法のイメージがまだ湧かない……。湧かないのだが、なんだか面白そうなところへ行けそうな気もするのだ。
 もとより、言語と物語を芯とする演劇に、再現性と論理性を捨てろといってもできないだろうし。ただ、できないなかで、その再現性と論理性を、より直接的で感覚的な、よりリズミックなものへ変換することは不可能ではない。じじつ、そういう類いのことはいくらかはやってきた。
 けれどいま、自分に突きつけようとしている方法は、まず出発点において直接性と感覚性から入っていくことができないものかということ。形のリアリティから入ってみようということ。あくまで、リズムという形式を意識して!

 はたしてそれはほんとうに可能なのか?
 演劇ではなくダンスになってしまうんじゃ???

 なにごともやってみなくちゃわからないー。
 あー、リズム!リズム!リズム!



 追記。あるいはこういうことは可能かもしれない。
 同じく「スコラ/音楽の学校」のなかで、細野晴臣さんが言ってたことだが、なぜ乗れるリズムと乗れないリズムがあるのか、つまりグルーブ感はどこから来るのか?
「YMOは当初敢えて正確無比なリズムマシーンの支配する、グルーブ感ゼロの世界でやってみようと始めたのです。でもすぐに飽きてしまって、今度は世界中のいろいろな音楽のリズムのズレを研究しました。ズレのなかに、グルーブ感の秘密を研究したのです」
 つまり、ズレがなければ人は乗れないし、そのズレの微妙な出し加減に、乗れるリズムと乗れないリズムの違いがある。コンピュータで描いた円より、人が手で描いた円のほうがだんぜん人を感動させる可能性があるということだ。
 だとしたら、乗れるか乗れないか、ズレの微妙な出し加減には個人差や文化や風土による違いがあるとしても、集団で、共有できるグルーブ感=ズレを持つ独自のリズムを1から創出し、それを表現の「基点」とすることは可能なのではないだろうか。

 ボクとしては、けっして得意な分野ではないのだが、むしろ苦手なのだけれど、いつか、そこをじっくり試みるのも面白いのじゃないか。


参考文献:
ヒルシュベルガー「西洋哲学史 ㈵古代」高橋憲一 訳(理想社)
「哲学辞典〔第4版〕」森 宏一 編集(青木書店)

2011年1月12日水曜日

リズムは形

あらゆるものに形があるように、
あらゆるものにリズムがある。

赤ん坊の笑いのなかに
葬列の足取りに
バラの花びら
子犬の駆けあし
焼きたてのパンの匂いにワインの味
感情の起伏、涙のなかに

物から心へ 心から物へ
響き合うのはリズム。
リズムは形。形だから美しい。

たとえばこんな無声映画——
こわばった女の足取り、
ためいき、それからぼおっとマッチが灯り、
車のライトが通り過ぎる、
そして、うなずく男の影……。

いったい女と男のあいだになにがあったのか?
わからない。わからないが、
そこにリズムがあり、
形があったから、
光と影が 時の推移が
ボクの心にある響きを伝えて消えた。

そういえば、
あの日東京の街灯に揺れていた
あなたの瞳も唇も
光と影だった。時の推移だった。

あのときあなたは戸惑ってた? 傷ついてた?
それとも怒りのあまり震えが止まらなかった?

わからない。わからないが、
ふるえるあなたの、
リズムは形。形だから美しかった。
壊れそうに美しかった。

冬空の下で、
木にかじりついて光ってる
氷の結晶のようだった。

2011年1月8日土曜日

石の話。あるいは、原始へのあこがれ。

 石は堅い。
 どれくらい堅いかというと、人の子どもの子どもの子ども…という繋がりが百代続いても変わらないくらい堅い。
 人の約束なんて話にならないくらい堅いのだ。

 だから、人は石に憧れる。
 憧れるどころか、昔の人は畏れもし敬いもした。自分らが知らないずっとずっと昔のことを石は知っているのだから。

 だから、いまのボクらも、石を見ていると、いまは知らない昔のことを思ったり、知らない原始への憧れで胸がいっぱいになったりして…

 キミはさいきん石を握ったか?

 握った石を、たとえば投げたか?

 なでなでしたか?



 そういうわけで、人類が文字を発明する以前の何千年も何万年も昔のことを知ろうとしたら、遺っているのは石しかなく(あるいは石化した有機物)、だからその時代を石器時代と呼ぶのだろう。
 石器というのはもちろん石で作られた道具のこと。石の斧とか石のナイフ。石の矢尻や器のことだ。

 このあいだ、アイヌの文化を守っているアイヌ資料館の館長さんが、スコットランドを旅するドキュメンタリーを見た。
 日本に編入されようというかつてのアイヌ民族に、少数民族の文化や言語の大切さを教えたスコッランド人がいた。その民族の恩人の魂を慰撫するため、館長さんはその故郷を訪ね、アイヌの儀式をかの地で行う。そのとき、伝統の石器でもって白木をサクサク削るのだが、その原始的な石器の切れ味の鋭いこと!
 市販の彫刻刀なんてメじゃないくらい、サクサクなのだ。ゆめゆめ石器を侮る勿れと思った。
 中学生のころ歴史の教科書とかで、なまったような無骨な石器の写真を見て、こんなんでなにが切れるものかと心のなかでその原始性をバカにしたものだが、改めねばならないと思った。
 磨きあげられた石の鋭さを、原始性の切れ味を、バカにしてはいけない。



 それから丸石のこと。道祖神のこと。
 長野でも全国でも道祖神さまといえば、男女一体の彫り物の石が有名だけど、ボクの故郷の山梨のたとえば甲州街道沿いでは、それはただの丸い石なのだ。

 ちょっと立派な石の台座のうえに、どこか河原から拾ってきたようなひと抱えの丸い石がちょこんと乗っかっていて、それが道祖神さまで、今でも道端にたくさん見ることができる(この丸石については、中沢新一氏のお父様で民俗学者の中沢厚氏が書かれた本がある。まだ読んでないけど読みたいな)

 それは、具体的な男女の姿や男根の形などよりずっと抽象的で宇宙的な感覚のオブジェであり、と同時により原始的な、人間の石というモノへの信仰を露骨に素朴に感じさせる道辺の神様なのだ。
 もちろんいま在る丸石は太古からのモノではないけれど、そこにはまだなにかしら原始の人間の信仰のカタチが留まっているように思える。
 丸石を見ていると、もしかして原始という時代は、ボクらの現代よりももっとずっと抽象的で、もっと宇宙的だったのかもしれないとさえ思えるのだ。
 しかも山梨の人は「うちらあ縄文から一気に維新になったからよー」といまも云う……。



 先日ひさしぶり帰省した折に丸石の写真を撮ってきた。
 そして戻ってきた東京の或る夜、夢を見た。

 昼間だというのにうす暗く、黒々と流れる川べりのような一本道に、見渡すと、ホタルのような青白い丸石が遠くまで点々と続いている。
 川の流れる水音だけが途切れなく響いていた。
 ボクはカメラを持って、その丸石のひとつひとつを挨拶するように写して歩くのだが、レンズを向けると、青白い光は弱まって、なぜか不思議に丸石に宿る精霊のこころがやんわり浮かび上がるふうなのだ。

 ある丸石は、いまも道辻で人々の崇敬を受けながら、交通の安全を祈り、行く先を示す、道しるべの仕事に勤しむことがほんとうに誇らしいという顔だ。

 別の丸石は、もとあった場所から移されたのか、道からやや奥まった場所の厳かな高台の上に載せられて、引退した老人のよう。気恥ずかしいような、萎縮しているような面持ちだ。

 またお正月の真新しい注連縄で飾られて、なんとも満足げな丸石や、歓声を挙げながら鬼ごっこをする近所の子どもたちにひっきりなしに台座に乗られ、それがなんだかこそばゆいような、嬉しいような丸石もある。

 どの丸石も、みなそろって気取りがなく親しげだ。
 裏も表もない。まん丸な形そのまま。全方位的、宇宙的にこころを開いている。
 すると、寡黙だった丸石たちがいっせいにささやき始めた。

——そうそう。ボクらは神社仏閣とは無縁のただの路傍の道祖神。高等でも上品でもない。けれど、貧富も身分もなかった縄文や石器時代の、太古のたましいをいまもこうして青白く点灯させているんだ。



 目を覚まして、ボクは思う。
 ここは山梨でない、東京なのだ。

 どんなに憧れても、ノンキな原始の時代へ戻ることはかなわない。幸福だった少年時代と同様にだ。
 けれども、太古から生き続けている精霊のような存在を感じることはできるかもしれない、丸石のように。「クリスマス・キャロル」のスクルージのように。

 いったいこれからボクらはどこへ行くのだろう?
 空に問いかけてみる。

 現代はあまりに過剰な変化の時代だ。
 しかも、その変化がなければ落ちつかず、それを欲してしまう、そういう心性にボクらはすっかり馴らされてしまった。
 つまりはただの情報なのだが……。
 もしも丸石のように、まる一日、ニュースでも株式市場でもインターネットでも、まったく変化がなかったら、何も情報が動かなかったら、みんなどうするだろう?
 それこそ丸石を砕いて、太古を計り、相場に乗せて変動を作り出そうとするのだろうか?

 時間が、過去から未来へ向かって一直線に伸びているという考えが一つの観念なのだ。あるいは幻想なのだ。

 もしも時間が一直線なら、縄文時代の人々が丸石を祀るようなことはなかったろう。丸石のなかでは時間は一直線には進まずに、循環しているのだから。
 実際いまだって、ボクらの心のうちではほんとうは毎日さまざまな思い出が蘇ったり、回帰したり、また忘れたり。時間は行ったり来たりをくり返しているではないか。
(もしも、ひとときでも、あなたが、時間の一直線幻想から逃れられたなら、これ以上、時代の変化や情報にさいなまれることはないのだ……)



 石と向かい合う

 それは自然ぜんたいと向かい合うこと

 自然のずっと変わらなかった部分
 何千年も何万年もあるいは何億年もずっとずっと変わらなかった部分つまり「自然の法則」そのものと向き合うこと

 宇宙と向き合うということ、だ

 その、いっしゅんだ——

 キミはさいきん石を握ったか?

 握った石を、たとえば投げたか?

 なでなでしたか?