2011年1月14日金曜日

リズム!リズム!リズム!

 坂本龍一教授の「スコラ/音楽の学校」を見た。子どもたちとリズムを発見するワークショップで、ああ、そうか!と合点したのは——リズムって形なんだってことだった。
  坂本さんは、子どもたちを円形に歩かせたり、竹筒を叩かせたり、これはどう? リズムかな? じゃあこれは? って一歩一歩やさしく導いていくのだが、子どもたちの反応の鋭いこと! 強弱も長短もないただの泊打ちには、「なんかつまらない!」「リズムじゃなくてただの拍子だ!」とか言ったり、一拍目にアクセントをつけて打つと、「うん、リズムっぽい!」「乗れる!」と来たり。
 リズムは乗れるか乗れないか。そして、強弱も長短もないただの平板な音のくり返しに乗れないのは、そこに味わうべき形がないからだということを子どもたちから教わったのだった。

 リズムは形なのだ。つまり形式だ。しかも内容より本質的な形式だ。
 リズムの良し悪しには、どんな楽器で演奏されるかは問われない。ノリのいいリズムがあって、それがカスタネットで演奏されるか、タンバリンであるいはトライアングルで演奏されるかは、基本的に関係ない。
 その現象を具現化するのに、素材より、形式のほうが本質的だという現象、それがリズムなのだ。
 と思ったら、つねづね本質論の演出家を標榜しているボクとして、こういう類いの本質つまり形式が本質であるようなアリストテレス的本質でもって芝居を創ったことはあまりなかったなと、そんな心境へ至ったのだった。



  イデア、という至高の理念世界こそが実相であると考えたプラトンとは反対に、アリストテレスは、個々の具体的な個物こそが実在するものだという、いわばボクらの日常感覚とわりに近いところで世界を見ていた。イデアがあるとしても、どこか別の世界にじゃなく、個物の中に内在しているんだと。
 そんなアリストテレスの哲学の核心が、形相と質料という概念。質料形相論になる(ちなみにこの場合、形相は「ぎょうそう」ではなく「けいそう」と読む)。

「植物、動物、家、彫刻が種子、木材、石などからできるのを見るがよい。それゆえ、できあがったものはつねに質料と形相との合成物であり、分析的思考は質料的および形相的原因という2つの原理をむき出しにし、質料および形相という概念を純粋にとり出すことができる」(アリストテレス『自然学』1巻7章より)

 つまり建築物に例えると、設計図が形相で、材料となる木や石やコンクリートが質料。人間に例えると、魂が形相で、肉体が質料となる。つまり形相のほうが本質であり、プラトンのイデアに当たるのだが、その本質は、質量(材料)と結びついた形態でしか現実には存在しないというところがアリストテレスのポイントだ。
 究極の理想世界、イデア界などないというのだ。

 リズムは形だ、そう思ったとき、ボクはすぐこのアリストテレスの哲学を思い出した。
 リズムとは、まさに形であり形式であり形相で、同時に本質でもあるが、音や形となって現実世界に飛び出すよりほか存在しようのない、そういう本質だ。
 また、反対にこうも言えよう。アリストテレスの形相という物事の本質は、まさにリズムではないか。命あるものもないものも、自然は形として、本質を受け渡しつつ受け取りつつ、模倣し反復し周期するリズムだと。

 提言:リズムは、形であり、自然の本質である。また自然の本質は、形であり、リズムである。

 これは、これまでボクがイメージしてきた物事の本質とはがらりと趣のちがうものだ。あまりに乾いた、現世的な提言だぞ。
 してみると、これまでの舞台表現で、ボクはむしろプラトンのように理念的な本質(イデア)がそのままに実在する世界を、どこかで夢見てきたのかもしれないな。



 では、舞台表現にとっての本質とはなにか?
 それは、表現のよりどころとなる「基点」であり、かつまた表現の「主題」だろう。
 あるいは、亜流哲学学徒であり演出家であるボクにとっては、舞台と世界の接点、その対応関係を保証するリアリティでもある。
 ボクがこれまで求めてきた本質は、おもに再現的で論理的なものだ。それは言語の持つ再現性であり論理性であり、台本の読解から得られるもので、とにかく台本に書かれた台詞とト書きを読んで読んで読み尽くすことから、ボクはその芝居の本質を、舞台と世界の接点を汲み取ろうとしてきた。
 そして、こうした論理をつむぐため、その背景に、ボクはプラトン的な理想(イデア)世界を前提していたのかもしれない。
 だがしかし、鏡の向こう側にもうひとつ別の本質があるとしたら?
 それがリズム。形という本質。アリストテレス的な形相的本質で、それを舞台表現の座標軸からいえば、言語のもつ再現的で論理的な本質とは対して、身体がもたらす直接的で感覚的な本質ということになるか(たとえばダンスで真っ先に採用されるような)。
 そこでは、イデアのような理念は絶対に必要なわけではない。形式のリアリティ=感触さえあればまずOKだ。

——正シイナンテコトガ、ナンニナルノサ!

 だが、そんな直接的で感覚的な本質を中心に、演劇を構築することははたして可能なのだろうか?
 言葉や意味よりも、リズムやグルーブ感でもって場面を作ることは可能なのだろうか?
 おそらくは可能だろう、だが、じつを申せば、ボクにはその実際的な方法のイメージがまだ湧かない……。湧かないのだが、なんだか面白そうなところへ行けそうな気もするのだ。
 もとより、言語と物語を芯とする演劇に、再現性と論理性を捨てろといってもできないだろうし。ただ、できないなかで、その再現性と論理性を、より直接的で感覚的な、よりリズミックなものへ変換することは不可能ではない。じじつ、そういう類いのことはいくらかはやってきた。
 けれどいま、自分に突きつけようとしている方法は、まず出発点において直接性と感覚性から入っていくことができないものかということ。形のリアリティから入ってみようということ。あくまで、リズムという形式を意識して!

 はたしてそれはほんとうに可能なのか?
 演劇ではなくダンスになってしまうんじゃ???

 なにごともやってみなくちゃわからないー。
 あー、リズム!リズム!リズム!



 追記。あるいはこういうことは可能かもしれない。
 同じく「スコラ/音楽の学校」のなかで、細野晴臣さんが言ってたことだが、なぜ乗れるリズムと乗れないリズムがあるのか、つまりグルーブ感はどこから来るのか?
「YMOは当初敢えて正確無比なリズムマシーンの支配する、グルーブ感ゼロの世界でやってみようと始めたのです。でもすぐに飽きてしまって、今度は世界中のいろいろな音楽のリズムのズレを研究しました。ズレのなかに、グルーブ感の秘密を研究したのです」
 つまり、ズレがなければ人は乗れないし、そのズレの微妙な出し加減に、乗れるリズムと乗れないリズムの違いがある。コンピュータで描いた円より、人が手で描いた円のほうがだんぜん人を感動させる可能性があるということだ。
 だとしたら、乗れるか乗れないか、ズレの微妙な出し加減には個人差や文化や風土による違いがあるとしても、集団で、共有できるグルーブ感=ズレを持つ独自のリズムを1から創出し、それを表現の「基点」とすることは可能なのではないだろうか。

 ボクとしては、けっして得意な分野ではないのだが、むしろ苦手なのだけれど、いつか、そこをじっくり試みるのも面白いのじゃないか。


参考文献:
ヒルシュベルガー「西洋哲学史 ㈵古代」高橋憲一 訳(理想社)
「哲学辞典〔第4版〕」森 宏一 編集(青木書店)

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