2011年3月18日金曜日

印象派 〜早春スケッチ〜

2011年3月15日 曇りのち雨

 涙が流れてきそうな冷たい空だった。
 彼女はもうフランスへ帰ってしまったし、僕は朝からひとり毛布にくるまって、空からいま通常の30倍を超える値の放射性物質が舞い降りてきているというニュースを聞いていた。「ただちに人体に影響を与える濃度ではない」という。だが世界はもう目に見えないところで決定的に壊れはじめているのではないか。見えないもののおそろしさに僕は慄然とし、さらにひとりぼっちになった。
 それでも、それは今日東京でまだ生きている僕らへ、被災地から届いた物理的「現実」なのだ。ここで逃げたらこの先もずっと逃げるだろう。
 ボクはテレビを消してネットを切ると、厚手の靴下にトレッキングシューズ、毛糸帽を目深にかぶってマスクをして部屋を飛び出す。長いこと、身も心もすくめて情報に身を晒していたせいで、腰から首にかけて筋肉が引き攣っているようだった。
 ペダルを強く踏む。主人のいなくなった桃園が見える。いつのまに咲いたのか、濃いピンクの点綴がぽつぽつと灰色の空に滲んでいた。まっすぐに伸びた枝も暖かみのあるオレンジ色だ。いつのまに、春は近づいていた。
 近くの畑にはペンペン草がもう生えて、その隣には名前の知らない紫色の花。向こうには、山茱萸やミモザの畑が黄色い炎となって燃え立つよう。同じ黄色でも、山茱萸は垂直に伸びた小豆色の枝に濃い黄色が一粒一粒灯るようで、ミモザの花はライム色の小葉に守られて、ひとかたまりに圧縮されてはじける炭酸飲料レモンイエローだ。枯れたミモザの葉や枝がやさしいサーモンピンクなのも初めて知った。よく見ると、畑の土までぼんやり暖色を帯びている。
 またペダルを踏む。この辺りで唯一武蔵野の自然が残っている雑木林に入る。木々の枝はまだ黒く裸のままだが、落ち葉のあいだから伸びた草の色はやはり暖かい。そのなかをついばむものを探して、ツグミたちがヒヨヒヨ歩いている。僕も自転車を降りて歩いていく。黒々とした林の尽きるところで、大きな白梅の木がその存在ぜんたいを煙るような薄桃色に発光させていた。
 近寄って見ると、花弁の白と萼の赤がなんとも潔く、中心の蕊の黄色は星の形だ。まるで小さな花火のようだ。どれもこれも冷たい空気のなかに生まれたばかり、みずみずしくふるえている。太い幹からひょいと伸びた若木にポッポッと並んでいるのも、精霊のつくり物のようでいとけなく可愛らしい。
 離れ際なんども振り返り、白い空、黒い林を背景に、大きな薄桃色の火炎が透明に燃え上がるのを見る。木全体が凛とみなぎっている気配だった。世界は生きている。
 さあ、雨が来る前に街まで辿り着かなくては。僕はさらに強くペダルを踏んで、坂を上がって行った。
 
2011年3月18日 快晴

 午後2時46分。黙祷。目を閉じると、あのめまいのような揺れが体のなかで続いてるのを感じる。ちょうど一週間分の記憶。

2011年3月19日 快晴

 空は晴れ、世界にはまんべんなくあたたかい陽射し。たまさかの僥倖。
 本日東京の放射線量は0.047マイクロシーベルト毎時。平常よりはまだ多いが、国際原子力機関が「都内に健康上の危険はない」と発表したせいか、テレビも平常通り平凡になったし、みんな街に出てにぎわうべきところはにぎわっているようだ。しかし被災地の状況はいまだ全体が見えず。いまも救援がないままに取り残されている人たちが海岸部に点在している。
 僕はまたひとり。ペダルを踏む力に汗ばんで、ダウンジャケットを脱いで自転車のカゴに突っ込んだ。見上げると、四日前にはまだ固かった白木蓮の蕾がふくらみ始め、寒桜の葉もやわらかく空に伸びていた。
 図書館に寄り、もはや僕のなかで古びた本を返し、駅前のデパートでまたいつか会えるときのために彼女へのプレゼント(白木蓮色の下着だ)を購うと、まっすぐ南下して多摩川の川辺りに出た。
 おぼろげな春めいた空気のなか、キャッチボールをする親子やサッカーチームの練習風景はいつも通りの河岸の景色だ。頭上に広がる大空は、霞みがかった空色から柔らかな桃色へ、たしかにうつろう春の夕暮れの空だ。あと十数分もすれば陽は落ちるだろう。
 岸辺近くに大きな柳の木が一本。空に向かって萌える新芽をライトグリーンに輝かせ、無数の椋鳥たちの棲家となっていた。なにを合図にしているのか、いっせいに黒豆のような椋鳥の影が何百と大気を揺さぶり飛び立つ風景に、こちらの心まで乱された。
 鉄橋の上を列車が走って行った。振り返ると、かすんだ西の空を、陽はいままさに沈み消えようとしていた。
 遠く多摩丘陵の稜線に欠けてゆく、光の真円。じわじわと地平の底へ向かって小さくなっていく。現実には、太陽が沈んでいくのではない。動いているのは自転している地球のほうで、太陽が沈んでいくように見えるのは、地球上からの視点が被る「錯覚」にすぎない、と科学は言う。けれど「現実には」というその「現実」とはどんな「現実」なのか。地球上からの視点もまた一つの視点ではないか、と僕は思う。
——目に見えるものを信じるか、見えないものを信じるか?
 人類は、これまで徹底した実証主義によって科学的真理を積み上げてきた。だが一般人にとって、その真理が日常経験と異なる時あるいは目に見えない時、その根拠は、「科学(あるいは教科書)がそう言ってるからそうなんだ」と信じる以外にない。地球が太陽のまわりを回っている風景を見たものはいないし、またインフルエンザのウィールスが体のなかで暴れている姿をじかに見た者もいない。われわれはただ、科学(あるいは教科書またはニュース)がそういうからそうなんだと「信じてきた(自分では実証しようとせず)」のではないか。
 しかし、なにをどう信じるかは個々人の生存能力や覚悟にかかわっている。いまこの上空をどれだけの放射線が飛んでいるか、どれだけの放射線を体内に蓄積すると有害となるのか、それらが目に見えない以上、われわれはまず科学的真理≒情報を「信じる」よりほかない、にもかかわらず、その情報をどれだけ「信じて」、そこからどのようなアクションを起こすかはまったく個々人にかかっているのだ。
 いま西の空で、命尽きるように地平の底へ沈んでいった太陽は、僕の目には沈んでいったとしか見えなかった。
 沈んでしまうと空はさらに激しく燃え出した。それは、日没点を中心に黄色から濃いオレンジ色へグラデーションするラジエーターだった。自然界の放射性物質だった。ああ、そうかと僕は思う。言葉は比喩だ。言葉のなかで陽は沈むのだ。没した者の悲痛の叫び。爆発的なメッセージ。まるで革命家の血のように、詩人の涙のように、辿り着かない永遠に向けて、空は最期の光を放っている。
 その外側からははやくも藍色の闇が滲み寄ってきて、夜の藍と日の名残りのオレンジとが重なり合っている弛緩領域は不思議な飴色に輝いていた。
 僕は自転車を降り、流れる川の水際まで、枯れ草色の葦の茂みをかきわけていった。水際は小さな崖のようになっていたが、釣り人がつくった窪みまで降りると、そこは足元まで水に触れられるほどの低さだった。そして波打つ水面には、あの上空での色彩のせめぎ合いがそのまま、まるで鏡の向こうの世界のように反映し揺らめいて、阿呆みたいに立ち尽くす僕の濡れた足元にまでしたたかに届いているのだった。
 そのとき、葦の茂みの向こうの闇から声がした。姿の見えぬその声は、ひそひそと軽やかで、よく聞くと女子学生ふたりが学校での恋話を熱心に相談し合っているのだった。
 でねえ……そうなんだけど……だってえ……でしょ……でも……ああどうしよ……
——ああ、彼女らには、見えないものへの恐怖より、見えないものへのときめきなのだ!
 陽はまた昇る、と思った。
 あの断末魔のようなオレンジ色の死は、再びまぶしい産声となってかならず東の空に帰ってくる。それは願いでも希望でもなく、生の事実なのだと。
 ハンドルを握って堤防の上まで一気に駆け上がる。空はますます墨を流したように暮れていったが、そのまだらのなかをまだ多くの市民が当たり前のようにランニングしたり散歩したりしていた。

0 件のコメント:

コメントを投稿