2011年6月7日火曜日

水の巡礼変奏曲

「シューベルト、ピアノソナタ第16番 第2楽章」より

 ほら、昨日夕暮れに思わぬにわか雨が降ったろう。すぐにやむかと思ったけど、なかなかやまず、取りかかった仕事もなんだか手につかず、僕は濡れた風景を窓からぼんやり眺めていたんだ。すると、向こうの山のふもとの鬱蒼とした薮のなかにある、小さな池のことが心に浮かんだ。あの青灰色に淀んだ水面にも、雨はしずかに落ちていることだろう。ぽつり、ぽつ、ぽつ、誰しらず、波紋が同心円に広がって、重なり合って、濁ったあぶくが浮かんでは消え、浮かんでは消えているだろう。西の空はもう晴れて、雲間からは光のシャワーが降り注ぎ、のぞいた空はやんわり茜に染まっているというのに、あの青灰色の池には、誰しらず、にわか雨が降っているんだ。ぽつり、ぽつ、ぽつ、波紋が同心円に広がって、重なり合って、細かなしずくが弾けては消え、弾けては消えているんだ。もしかしたら、鬱蒼とした木立をすりぬけた一筋、二筋の夕日が、弾ける刹那のしずくを射抜くかもしれない。その瞬間プリズムのように、楽しかったことや悲しかったこと、失われた時間が虹色に光って暗い薮地を照らすかもしれない。けれど、それもつかの間で、なにもかもすぐに灰色の水底へと沈んでゆくんだろうなって、そんなことを思っていたんだ。

 それからカーテンを閉じて、暗い部屋のなかでじっと雨の音を聞いていた。そしたら、いままさに沈もうとする西日がカーテン越しにさし込んできて、部屋中をシャンパンのような淡い金色に染めたんだ。なのにまだ雨は降っている。いや、ますます強く、規則正しく楽しげに聴こえている。日差しはあるのにあんなに雨が降っているなんて、狐の嫁入りだったのか、それとも幻聴だったのか。とにかく、なんだか、時空のすきまに落っこちたような不思議な感じさ。なぜだかふいに、子どもの頃におばあちゃんがくれたドロップの味が口いっぱいに広がってね。嘗めるたびに変わった七色の味。懐かしい味。それから、友だちと裏山へカブトムシ採りに行って、雨に降られて近くの家の軒下で雨宿りしてたら頭のうえに大きな虹が架かっていたことや、家で特撮映画の最終回、ヒ—ローが宇宙へ帰ってしまってなんともいえない切ない気持ちで窓から外を見たら、豪雨で道が川のようになっていて驚いたことや、学校からの帰りに広い校庭を通り雨がまるで生き物のように通過していったことなんかが次々と浮かんできて、少年時代のときめきに胸が高鳴るようだった。ソファに寝そべって目を閉じると、そこにはもうまぶしい夏の空が輝いていたんだ。日が沈んで、部屋は真っ暗だったのに。

 草の匂いがする。それを踏みつぶし駆け抜けてゆく少年たち。うしろに残された、風にそよぐ薄桃色のリボンと黄色いテント。あれはなんのキャンプだったろう? 湖畔の草原だ。ボートは湖面をすべり、オールが水しぶきをあげた。朝もやの向こうに見えた小島の影がなんとも霊妙で、朝つゆの匂いや淹れたてのお茶の香りに僕はわけもなく興奮したっけ。それから、昨晩テントを打った雨音がまだ耳に残っているというのに、ロッヂからはもう早朝レッスンのチェロの音が聴こえてきて、僕はチェッと舌を鳴らしたんだった。それからそう、あの、夕暮れだ。キャンピングカーのエンジン音。ガソリンの匂い。慌てふためくみんなから離れて、僕は濡れたままで強く膝を抱えてた、あの子らの無事を念じながら。ロッヂからはまだ先生のチェロの音が聴こえていたような気がするが、そんなはずはない、息子と娘の安否がかかっていたのだから。赤い鳥居。神様の住む小さな島だった。ボート遊びのさなか、ちょっとした冒険心から彼と彼女をそこへ誘ったのは僕だった。僕はその兄妹のことがとても好きで、遊ぶときはいつも一緒だった。東ヨーロッパ人特有の明るい髪と瞳の色が持つロマンティックな雰囲気と、故国を離れてこの地に暮らすことの哀愁に心惹かれたのかもしれない。内気かつ執拗という芸術家気質もよく僕の性に合ったのだろう。もしかしたら僕はチェロを習うよりも、ふたりと親しくすることを求めていたのかとさえ思う。

 小島に上陸したまではよかった。けれど午後から急に雲行きが変わって、僕ら三人は立ち往生してしまったのだった。豪雨が容赦なく肩を打った。慌てた僕らは小さな島を上下に徘徊し、余計に体力を消耗して疲れ果て、神社の小さな祠のなかにうずくまった。兄である彼が妹の肩を支え、その二人の肩をすこし遠慮がちに僕が支えた。稲光が光り、雷が鳴った。あたりを雨がごうごう流れた。それは低くて深いチェロの響きに似ていたが、暖かみがなかった。途中で妹のほうが泥濘にすべって頭を打っていて、すこし朦朧としていたので、彼女を抱きしめる兄の肩は震えていた。僕は木々のあいだから灰色の湖面を見ていた。湖面はただ従容として雨を受け入れているだけだった。日暮れ前に雨がやむと、やがて大人たちが救助にきて、比較的元気だった僕から、憔悴していた兄妹を引きはがし、二人を車で近くの病院へと運んでいった。誰も僕らを責めなかった。そんな暇もなかったのだろう。しかし、僕はその事件をさかいにチェロへの興味を失い、先生もあえてそんな僕を引き止めなかった。そのあと、その兄妹がどうなったのかは知らない。しばらくして、冷戦の終結とともに、先生は息子と娘を連れて母国チェコスロバキアへ帰っていったと風の噂で聞いた。ただ十数年後、仕事でプラハを訪れたときに僕はあの兄妹の影を見たような気がした。いや、それどころか、プラハの街路のそこここに、風になびくふたりの明るい髪と瞳の輝きを何度も見たし、ついには、そのリアルな幻影に追いかけられさえしたのを覚えている。何百年も変わらないプラハという街にただノスタルジックなめまいを起こしただけなのかもしれないけれど。

 すでに夜もふけ、雨もあがっていた。いつしか僕は追憶にも疲れ、そのままソファで眠ってしまったらしい。夢のなかで、どうやらプラハの移動遊園地のメリーゴーランドに乗っているんだ。つる草模様の浮き彫りがあったり、絹のカーテンが靡いていたりする、とてもアンティークなメリ—ゴーランドさ。同じところをぐるぐる回りながら、上がったり下がったり、追い越したり追い越されたり、歩くよりも少し速いテンポで、タラッタッター、ラッタッター、とっても愉快でさ。なんだか急に心が軽やかになって、ロケットで雲間をすり抜けて、衛星になって成層圏から地上を眺めてるみたいな心地さ。水は、海から蒸発して上昇して雲になる。その雲がさらに上昇して冷やされると、今度は雨になって地上に降る。それが地下にしみ込んだり、湧き上がったり、川になって地表を流れ、ついにはふたたび海に戻ってゆく。そんな大きな、水の循環をいちどきに眺めているような、いや、ちがうな、自分が一滴の水になってその巡礼を一気に早回しでくり返しているような感覚なんだ。「そうなのか!」 僕は声をあげた。「僕ら生き物の命も同じなんだ、ひとときもどこにも止まらず、つねに流転しつづけながら、それでいて、どこかへ消えてゆくこともない!」すると、耳元で「だいじょうぶ」って誰かが応えた。気がつくと、隣の馬車にあの兄妹が乗っているんだ。前の白馬には兄が、後ろの馬車には妹が、ふたりとも明るい髪を風になびかせながら、上がったり下がったり、追い越したり追い越されたり、歩くよりも少し速いテンポで、タラッタッター、ラッタッター、こちらを見て笑っている。「だいじょうぶ。みんな生きている。だいじょうぶ」 触れられるほどには近寄らず、見えなくなるほどには離れずに、ときに僕が魚で彼らが水で、ときに彼らがツバメで僕が風で、交差したり、キリモミしたり、ずっとずっと3人のまま、どこへ行き着くこともないままに僕らは夢のなかを流れていったんだ……

 こうしていま、晴れた空の下で川原に座っていても、なんだか夕べの夢の高揚感がまだ体に残っているようなんだ。ほら、むこうの山のふもとの鬱蒼とした薮のなかにある小さな池は、今日もやっぱり青灰色に淀んでいるだろうし、それでも地下のどこかで、この目の前の大きな川とつながってもいるんだと思う。きっとあの兄妹もいまも地球上のどこかで生きているんだろうな。あ、ツバメが川面をすべって、まっすぐに上昇していった! 大気の流れが安定してるんだ。よし、ツバメになった気持ちで空を飛んでみようか! ああ、なんて気持ちがいいいんだろう。このまま川の流れに沿って飛んでゆけば、視界の両側いっぱいに川の両岸が広がって、うねるような川筋のさき視界の上のほうに、海へと流れ着く河口が見えてくるはず。えっ、源流から河口まで、水はどれくらい長い旅をするんだろうって? そりゃ、多摩川とドナウ川ではぜんぜん違うだろうし、アマゾン川じゃあ魚が一生かけても河口へ辿り着かないかもしれない。でも岸辺に暮らす人びとの一生はどこでもあまり変わりないだろう。たとえ、その人生が30年だろうと、100年だろうと、命のきらめきに差はない気がする。おっと、気をつけて、乱気流を通り抜けるよ。雲間に入ると視界ゼロだから。このまま成層圏を突き抜けよう、そしたら、まるで夕べの夢の再現じゃないか。いや、ちがう、再現じゃない、変奏だ。これは夢じゃない。いま僕らはちゃんと目を覚ましてる。ただツバメになったと想像して、水も、命も、世界のすべてが循環しているさまを俯瞰しているだけなんだからね。ほら、もうすぐ目の前に太平洋が広がる! さあ、日はまだまだ高いし、もっと上昇してみようか!

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