2011年6月4日土曜日

かえるリポート 葉っぱ編

——さて、本日のゲストは、かえる世界研究家の内江剛さんです。
——みなさん、こんばんケヨロン! 昨今の地球温暖化の影響から亜熱帯と化しているこの島国では、雨期ともなればじめじめじめじめ草木の陰で、かえるらがいかに我が世の春を謳歌し、どれほど高度な「かえる世界」を築いているか、みなさんはご存知か。「かえる世界」随一といわれるケロイチ大学への留学経験をもつ、わたくしが、今日はみなさんを知られざる「かえる世界の神秘」へとお連れしたいと思う。
——内江さん、よろしくお願いします。
——ご存知のとおり、かえると草木のつき合いはたいへん古く、すでに30万年とも50万年とも「かえる古事記」には記されており、少なく見積もっても10万年はくだらないというのが定説だ。しかし、今日は意外にみなさんに知られていない事実から披瀝したい。
——はい……。
——かえるにとって、草木は葉っぱ。花になんか興味なし。
(スタジオから笑い)
——そうなんですか(笑)。
——そうなんだよ! われわれ人間は草木というともう色鮮やかな花々に目を奪われがちだ、だが、かえるにとっちゃ花なんかどうでもいい。それより大事なのは葉っぱ。とにかく葉っぱ。葉っぱはかえるの生活全般を支える空間であり道具であり材料であり、さらにステータスでありファッションであり思想ですらある。「かえる世界」ではよく「葉っぱはたましいの器だ」なんて言われるねえ!
——と、というわけで、みなさんの知らない、かえると葉っぱの深くて奇妙なつき合いについて、今日は内江先生のお話を伺いたいと思います……。
(CM、入る)
——それでは、内江先生、お願いします。
——さて、みなさんのなかには、とくに「かえる世界」に親しんだことがないという方でも、子どものころにおじいちゃんやおばあちゃんから「ハッパガコ」なんて言葉を耳にしたことがあるのではないかな。あれこそ、まさに「かえる世界」の言葉なんだなあ、
(「えっ、ハッパガコってホントにあったの?」などと声が飛ぶ)
——あるんだな、これが。ハッパガコ。要するに「かえるの葉っぱ学」。つまりハッパ64だ。古来より「かえる世界」じゃ、葉っぱに関して64の分野に細目化された精緻かつ大胆な研究がたゆまず続けられてきた。その64にわたる研究分野の細目をざっと眺めただけで、どれだけかえるらが葉っぱに情熱を注いできたかは一目瞭然!
——まさに、かえると葉っぱは切っても切れない関係なんですね。
——ハッパガコは単なる学問じゃない。いわば「かえる世界」における生活と生命のための総合データベースだ。かえるらは日々の暮らしのなか、自らに与えられたスペースとステータスで、それぞれ葉っぱを読み、葉っぱを考え、葉っぱと対話して生きてんだ。そして、そこから喜びや癒しや深い叡智を汲みあげてんだ、ケロ!
(思わず漏れたケロ語に、スタジオ、ざわつく)
——あ、あの……、
——おっと失礼、思わず留学時代の癖が出てしまった。あははは。ともかく、葉っぱを見極めるかえるの目はすばらしいの一言だ! 人間の植物学者なんか目じゃない。ハッパガコの専門かえるなら、樹木類で3万種、野草類で4万5千種、コケ・シダ類で5万種、キノコ類に至っては8万種という膨大な種類の葉っぱをその形状、色つや、厚さ、堅さ、味や匂いからすべて瞬時に見分ける。いや、一般のかえるだって、その半分の数を見分ける。それに天候、季節あるいは病気なんかによる変化、亜種や変種の違いも完璧にわかるし、さらには、その用途や効能を正確に把握して、あますところなく使用することができんだぞ、どうだゲコ!
(スタジオ、さらにざわつく。「ケロ語だ!」という声が囁かれる)
——生きるか死ぬか、生活がかかれば、それくらいの知識はあたりまえだと思うかもしれない、けれどもどっこい、驚くべきことに、かえるの知識はまったく実用主義じゃねえんだ。ただもう純粋な知識欲から求めてるとしか思えねえんだ。それが証拠に、なんの役に立つのかわからんような葉っぱでも、かえるらはすべて同じように丁寧に分類整理し熟知してる。それはもうなにより、三度の飯より葉っぱが好きで好きでしようがねえ、葉っぱのこととなると、もう子どもから年寄りまでだれも黙っちゃいられねえってことなのさ。わかるだケロ?
——あ、は、はい……、ですが、かえるの子どもというと、おたまじゃ……
——「あすこの水溜まりの上のさツヤツヤしてていい塩梅だケロー?」とか、「この葉のカーブのグッとくるぜゲロ!」とか、「こっちのとんがり具合ったらもうドキドキよケロン!」とか。もうだれもかれも喋り出すときりがねえんだ、ケロケロケーロ! ケロケロケーロ!
(スタジオの奥から騒然とした物音が聞こえる)
——そんで、たいていはみんな自分の好みの葉っぱを一つ、二つチェックしててよ、仕事帰りとか、風呂から上がった後とかに必ずその葉の上で小一時間ほど、ポカンと口を開けてくつろいでんだ。その好みもいろいろでさ、テカリ具合やヌメリ具合にこだわる奴がいるかと思えば、日当り具合や傾き加減なんかを気にするのもいるんだ。もちろん、ほかにも、のど自慢のかえるならより響きのええ葉っぱを選ぶし、脚力に自信のあるのはやっぱ弾力性にこだわるしねえ。それに流行てのもある、「今年はフリルの多い葉っぱが、かわいいわ、ケロヨン!」とか「(枯れて)色のくすんだのがクールだぜ、ゲコ!」とか、もう千差万別で、なんとも面白れえのさ、ゲコゲーコ!
(と、ここで無理矢理、CM、入る。CM、終わると、スタジオは誰もいないような静寂。ナレーションのような内江博士の声だけが響く)
——あの日、私は「かえる世界」の暗い路地裏をひとり淋しく歩いていた。私は「かえる世界」随一というケロイチ大学への招待留学生であり、その日は研究発表を翌日にひかえ、準備のためにいつもより夜遅くなってから大学を出たのだった。雨はもうあがっていたが、晴れよりも雨を歓迎する「かえる世界」だ、いつまでもピチャピチャと耳の後ろで水音が鳴っていた気がする。いつもの角を曲がろうとしたとき、ふと道の反対側に、親子のような影がうずくまっているのが見えた。とっさにそのまま通りすぎようと思ったが、「痛いケロ、痛いケロ」という声が聞こえてしまい、私はその影へ、覚えたてのケロ語で「だいじょうぶでケロ?」などと話しかけてしまった。とたんに後頭部から一気に持っていかれてしまったんだ。「かえる世界」でいういわゆる「引きずり込み」という奴さ。いまでこそ私はそれへの対処法を知っているが、そのときは、なにしろ初体験だ、気がつくと私はその親子の住処に引きずり込まれていた。そこはどことは知れぬ、じめじめと暗い草むらのなかで、私が見た母と息子のほかに、父親と下の息子とおじいちゃんという五人の家族がいたのだが、彼らは本当に変わったかえるらだった。血筋からなのか、毒のあるウラシマソウという草の葉にしじゅう身を擦り寄せては、「痛いケロ、痛いケロ」とつぶやきながら気持ちよさそうにしているのだ。ウラシマソウはちょうど馬蹄のような形の茎に笹のような葉が次々と出ていって、団扇のような姿になる草だ。その笹のような葉のひとつひとつに彼ら親子らはくるまって、その毒に「痛いケロ、痛いケロ」とつぶやきながら気持ちよさそうにしていたのだ。そして、ぜひおまえもやってみろと私に勧めるのだ。私は叫んで抵抗したが、その甲斐もなく、やがてはウラシマソウの毒に全身蝕まれ、ついにはその毒なしには物足りないようになってしまったのだ。通常は、こうした毒への特別な嗜好は南米のかえる族に限られ、この国のかえるらに見られるはずものではなかったし、またその家族に南米出身の親戚はいないとのことだったけれども……
(CM、入る)
——また、それから数日後のこと、よく晴れた夏の午後だった。こんな陽射しの強い日は、かえるらはみな、草葉の陰でじっと身をひそめているんだろうとばかり思っていた。ところが、川べりの芝生に寝転んでた私の目の前に現れた、奇抜な配色のカップルのかえるは、テカテカに干からびた体をもろともせずに、男女のユニゾンで「行きましょうケーロ! ぜひ、行きましょうケーロ!」と鳴くのだ。私は、なにがなにやらわからぬまま、結局はまた例の「引きずり込み」で連れてかれてしまったのだった。まったく、かえるらのよそ者を招待したがる性向には良し悪しがある。歓迎する気持ちはとてもうれしいが、生物学的規範を超えて、種を同化させてしまうような、いわゆる「マジック」の乱用はいかがなものかと、これだけ「かえる世界」に慣れ親しんだ私ですら思ってしまうのだよ。そのカップルの特異な嗜好は、ナルコユリという細長いピーナッツのような緑色の花房へ、ポカンと口を開けてじっとぶら下がっているというものだった。それは、まるで70年代の実存的ヒッピーのように、これぞと信じたピュアなものに一心にすがっている姿で、それを見ている私まで、われ知らず、切なくなって、心もとなくなって、こころがざわざわするのだった。そして、そんなヒッピーカップルに促され、私もナルコユリにぶら下がってみると、いつしか、遠く水平線の彼方からやってくる、適度な自己批判と自己満足の波に交互に洗われているうちに、気がつくと指のあいだに膜が生え、吸盤ができ、みるみる体が「かえる化」していくではないか。ああ、私は泣いた、ゲロゲロ、ゲロゲロ。それ以外にどう泣けばよかったのか、ゲロゲロ、ゲロゲロ、ゲロゲロ、ゲロゲロ……

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